先日、絵画教室で何年かぶりに激しく怒りました。
原因は小学生男子の暴言。
1年以上通っている、根は気のいいやつなんですが、ここ数カ月、言動や態度にとげのようなものがあり、周囲の生徒たちも少し敬遠し始めていました。
その日、お母さまに話を伺うと、彼の背後にある物語が浮かび上がってきました。
彼には兄がおり、受験モード真っ只中。絶賛、反抗期中だそうです。
勉強もスポーツも万能な兄への憧れと影響があっての、「とんがってるアピール」なのでした。
この背景を聞くと、なんとなく理解できました。(ひとりっこのぼくはこのあたりの兄弟の機微、みたいなものに疎いのかもしれません)
彼のふるまいは、人間誰もが持ってる承認欲求から来る、表現のひとつだったわけですね。
話を本題に戻しますと、10年ほど前、Hachiが退社した企業には、A級ランクのパワハラがありました。
今でも心と体が、当時に受けた衝撃の残滓が残っています。
たとえば意識していないと呼吸が浅くなり、激しい頭痛があったり、フラッシュバックのように言葉や行為が脳内で明滅します。
退社を決めた時には、何冊も本を読み漁り、せめて一撃でも残そうと暴言の録音をおさめてハローワークに提出したりして、やり場のない怒りを軽くですがすっきりさせました。また、いつか自分が有名になったら、「暴言の録音」をYouTubeにアップしてやる、と決意しておりましたが、今現在はそんなばかげた気持ちなど微塵もありません。
つまらないことに割く時間は1秒もないからです。
さて、いっこうにこの世からなくならないこのパワハラが、人間の生理であることは、もう誰もがなんとなく分かっていることであると思います。
歪んだ承認欲求。
「歪んだ」という文言さえ外せば、先に登場した、うちの愛する生徒と同じ心理です。
子ども大人も持つ、当たり前の心理。
他の生徒たちの前で、わざときつい言葉を発したり、ぶっきらぼうな態度を取ることで自分を強く見せる。
またこれとは真逆の行為、おちょけて笑いを取る、というのも内面は全く同じことで、要は人に見てほしい、認められたい、という原始的な想いであります。
中身だけで言いますと、誰しも持っている気持ち。愛されたい、見てほしい、認めてほしい。
それをどう表現するかは、その人間のセンス、ってわけです。
子どもはいいんですよ、ある程度なにやったって。
「その行動は間違っている」
と、その都度きちんと教えてあげればいい。
その代わり、
「めっちゃおまえのこと、見てるからな」
という姿勢も忘れずちゃんと見せる。
行動は間違っているけれど、思いは理解できるということを知らせる。
そして、「人から認められる」ということには、それなりの努力やしんどさがつきまとうことも気づかせてあげる。あと誠実さもいるってことも。愛してるやつにはきちんと教える。
そして、これらの重要なプロセスを踏みつけて、自分のことを認めてほしい、わかってくれと凄まじい形相で訴えてくる、アニマルのような連中がいます。
それがパワハラをする者たちです。
「相手をおとしめることで自分を優位に見せる」
「罵詈雑言をあびせることで自分は強者であることをアピールする」
「『出来る自分』と『出来ないおまえ』を区別しようと必死に、他人の粗を探し続ける」
その連中の存在が、パワハラという言葉を生みました。(個人的にはちょっと言葉の響きがポップに思え、もう少し陰湿感を出してほしいところですが)
そもそもこの世界に、他者との差異でのみ成立する美などはなく、
空も、木も、水も、鳥も、魚も、笑顔も、それらは単体で美しい。
もちろん、大があるから小がある、といったロジックは無視できませんが、この際その辺のお話は置いておきましょう。
とにかく、です。
10代、20代の子たちがヤンチャしてそれを表現に変える、といったレベルは生物として清いのですが、大の大人が「他人の失敗や粗を、自分の得点」と勘違いして「自分は仕事が出来ている」とこれまた勘違いして美談・自慢話にしながら棺桶に入っていく。このけがれた連鎖を、この国からなくしたいと、ぼくは本気で思っています。
もっと言うと、ぼくたち芸術家が、そう思っています。
人様からすると、少し不思議に聞こえるかもしれませんが、ぼくたち芸術家(プロの)ってお互いに妙な敵意というものが一切なく、本当に別の生き物として尊重し合いリスペクトしまくってます。
チームプレイのような意識です。
チーム地球。
ひとりひとりは、その一員です。
海で泳ぐ魚が、鳥の羽ばたきに嫉妬しませんよね。きれいだなあ、くらいは思うかもしれない。
「水の中にいるのが幸せ」という本能から逃げられるわけもなく、まさか嫉妬して鳥の羽根をもぎとってやろう、なんて考えない。
ぼくたち芸術家の本性は、小さな惑星にめばえた、そんな野生に似ています。棲息できる場所も、為せる技も違うからです。
正直に申しますとパワハラ会社を脱出する際、徹底的に勉強し、罵倒の現場の録音、証拠集めなどをし最大限の武器を身に着けて、いずれ仕返しをしてやろうというあさましい気持ちをもっていました。しかし、前述の芸術家の本性に何年もかけて目覚め、「まるで連中と変わらないことを考えているじゃないか」ということに気づき、ばかばかしくなってそんな思いを捨てました。
というわけで、いま現在、集団やコミュニティで悩んでおられる人がいたら(特に若い人)、戦うなら方法はいくらでもあり、逃げ出すなら行く当てだっていくらでもある、そのことを知っていてほしいと心から願います。
どんな道を辿ろうと、必ず行くべきところへ行けます。
一か所で悩むには、地球はあまりにも広すぎる。
一部の無知をのさばらせるのにも、やはり地球は広すぎる。
われわれ芸術家が作品をつくり、人々の精神になにかしらの衝撃や癒しを与えることで、たとえわずかな変化であれ、良い未来の片鱗に近づけられればと願ってやみません。
そんな、切り絵アーティストHachが駆け抜けたサラリーマン時代についても語られる、自伝的小説はこちらです!
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