話し合いができない人が多い。
これは日本人の持つ独特の気質が原因になっているようにも思えます。
例えで言いますと、「起こった事象」という合理性のトーストに「自分の感情」というバターをたっぷり塗って差し出してくる人が多いです。
かなり以前のブログでも書いたと思いますが、たとえばぼくがAという出来事に対して何か意見を言った時、それがその人の気に食わないようで、全く関係のないぼくの性質にBというレッテルを貼ったり、何の因果関係もないCという出来事を持ち出して攻撃を仕掛ける方がよくいます。時には妄想をも味方につけます。
つまりこれは、その人が相手を攻撃しやすい武器を強引かき集めて、あたかも提示されたAのことについて議論しているつもりになっている状態です。おそらくご本人も意識していないのだろう、というのが最近のぼくの見立てです。それほどまでにAについてのぼくの見解が気に障ったか、そもそも誰かに何かを口出しされるのが嫌なのか。どうあれ、その人の防衛本能が過剰に働いた結果だと思われます。
先日、ある一つの事柄に対して意見を言うと「おまえはプライドが高い」と言われました。
Hachiのプライドが高い。これはぼくの性質の問題であって、「ある事柄A」に対するぼくの見解とは全く関係ありません。例えるなら10歳の子供が「選挙に投票したい」と言っているのに対して「おまえは10歳だ、このやろう!」と答えているようなもので、投票したいという立派な気持ちについて、または法改正は必要か否かについて議論すべきなのに、ただただ発言者の性質を口に出しているようなものです。
また、「暑いのでクーラーの温度を下げてください」と言っている人に対してただ「おまえは暑がりだ」と言って、互いの丁度いい温度設定にする話し合いをはなからしないも同然です。暑がりの人は「暑い」とも言えず、寒がりの人は「寒い」とも言ってはならないようです。
もっと言いますと、プライドが高いのがなぜいけないのでしょうか。
ぼくは自分のプライドが高いことを知っています。仕事、つまり作品制作やそれに関わるあれこれへの想いです。お客さんへの報連相をおこたらない、作品の手を抜かない、などといった当然のポリシーについてです。でもその方は、ぼくの心にグサッと一撃を加えるようなことが言いたくて、どうやらそう指摘しているようです。ことあるごとに(何か意見をいうたびに)そう指摘してきます。この一本槍をずっと振りかざしながらキメポーズを取っておられます。こうなると、もう話し合いをするどころではなく、このキメポーズを見て拍手したり、「よっ!いなせだねえ!」と掛け声を放つくらいしかできず、困惑を通り越してがっかりするのみです。
プライドが高く、世間知らず、偏狭な性格です、ぼくは。まあそれはさておき、Aについての話し合いがしたいだけなのです。
何度も言いますが、目に見えた出来事に対する主張とぼくの性質は関係ありません。まったく関係ないとは言えないかもしれませんがたいていの場合、「イエスかノー」「どのように解決するか」で結論を出せる話しか持ち出せません。この世界は言語でしかやり取りができないので。ましてや急に「ぼくちゃんの承認欲求を満たしておくんなはれ~」とわめきだすわけではありません(笑)
何十年後か先の未来では、言葉を交わさずテレパシーだけでやり取りができるようにならないかなあとさえ思います。しかしこの不便で誤解だらけのコミュニケーションを所有する人間世界を堪能していくしかなんでしょうねえ。
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