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お尋ね者の画家、カラヴァッジョ。

「良い画家とは、自然の事物をうまく模倣できる画家である」という言葉を残したのはカラヴァッジョという画家です。1571年イタリア北部のミラノに生まれた画家カラヴァッジョは、写実性を重視した静物画をとことん研究した伝統的な技術をもつ画家で、その優れた能力を宗教画に発揮した画家でした。誰もが彼を天才であることを疑うことのない芸術家です。しかし同時に悪名高い犯罪者でもあり、ついには殺人まで犯し逃亡生活を送りながら作品を発表していくことになります。

ミラノに生まれた彼がローマへ渡ったのは21歳のときでした。
ルネサンス時代が終わり、芸術の中心地はフィレンツェからローマへ移っていました。

10代のころには、ミラノのペテルツァーノという画家のもとで4年間修業しましたが、あまりこの方の作品を参考にせず、静物画の基本を熱心に研究します。少し天邪鬼な性格の持ち主だったのかもしれません。

ローマは当時、ルターが腐敗したカトリック教会を激しく糾弾し、その信頼を取り戻すべく建築・絵画・彫刻・音楽などの芸術に力を注いでいる時期でした。教会の内部装飾や改築を盛んに行ったりしてたので、各地から仕事・成功を求めてたくさんの芸術家がローマへ集まってきました。カラヴァッジョもその一人でした。

1594年にローマ最高の画家カヴァリエール・ダルピーノの工房へ入ります。静物画の描写力の腕を買われ、絵の中の花や静物を担当します。分業制作が中心だった当時、この工房を八か月ほどで辞めることになりますが、その後、デル・モンテ枢機卿に気に入られパトロンとなります。

このデル・モンテ枢機卿の口利きで礼拝堂の壁画という大きな仕事に携わります。これを皮切りに彼に多くの注文が殺到するようになりました。しかし「聖母の死」や「蛇の聖母」などいくつかの作品は、依頼した教会が受け取りを拒否します。

「聖母の死」では、そのなまなましい死にざまに荘厳さがなく不適切とされました。「蛇の聖母」では画面右の聖アンナが聖人に見えない、年老いた老婆にしか見えないとされました。カラヴァッジョという人は、娼婦をマリアに見立てたり、貧しい人々のありのままの姿を作品のモデルにして宗教画を描きました。教会からすればそれは冒涜以外の何物でもない行為に見えたのでしょう。

カラヴァッジョは聖人を、どこにでもいる人々と同列に扱おうとしておりました。
イエスが居酒屋に現れたり、静物と同じように描いたり…それらは斬新な表現ではありましたが、当時の画家たちに多大な影響を与えました。

作品制作には誠実に向き合う彼でしたが、数週間制作に没頭したあとは1~2か月ほど盛り場を遊び歩く、というライフスタイルでした。画壇では名高い彼でしたが、夜は行く先々でけんかや乱闘騒ぎを起こす、札付きの悪人でした。そんなあるとき、ついに殺人を犯し逃亡生活を始めます。賭けごとをめぐる、どこにでもあるトラブルが原因でした。

「見つけ次第殺してもよい」という命令のもと、追跡が始まります。それほどこの時までに犯罪歴が積もり積もっていました。当時イタリアは小さい都市国家に分かれていたので、都市境をまたげば死刑宣告からはまぬがかれました。また、彼の逃亡生活を陰で支えたのは、彼の才能を愛してやまないパトロンたちだった、と言われています。

いったんスペイン領ナポリに身を落ち着かせますが、画家としての名声も各地にとどろいており、お尋ね者の彼でしたが、絵の注文がすぐに舞い込みます。

この後マルタ島という小さな美しい島で、画家として修道士として敬虔な生活を送る、かのように思われましたが、仲間とともに「世直し」と称して位の高い騎士を襲撃し、投獄されます。そしてこの血気盛んな男が大人しくしているわけもなく、刑務所から脱獄に成功しまた逃亡生活を始めます。

どういうわけか、このような落ち着かない生活を送りながらも、作品自体の出来栄えというものは研ぎ澄まされていき、同時代の画家たちに良い影響を与えていきます。そののちに活躍する画家たちにもおおいに受け継がれていくことになり、レンブラント、フェルメール、ベラスケスらがその影響が色濃いとされます。

38歳のときに病気で死んでしまいます。

彼の人生は、犯罪者またはトラブルメーカーという暗い影の部分が、まぎれもない天才画家という光の部分を照らし出しているように思えます。

それはまるで彼の絵が、極端な暗闇が、光と色の存在を強調しているのに似ている気さえします。

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