営業をしていたサラリーマンの頃、激しいパワハラに疲弊しきっていました。
それでも毎月、営業成績に追われ立ち止まることもできない日々、倒れてる暇もない。
ただ仕事をするだけでした。
子供の頃、一番夢中になっていた「絵を描くこと」からも遠ざかっていました。
遠ざかる、というかぼくの体から完全に抹消されておりました。
そんなぼくが、脱サラをしてアートで生きることになったのはあるきっかけがあったからです。
わずか1年ほど、お付き合いしてくれていた女性がいました。
しかしぼくはパワハラによるストレスで、男性としての機能が停止し、その女性とはお別れするまで一度も肉体関係を結べませんでした。
それでも優しくそばにいてくれた彼女。
ある時、ぼくは公休を取って、彼女と温泉旅行へ行きました。
若い彼女に、こんなおっさんじみた休日を過ごさせるのもどうかと思います。でも当時のぼくは、勤務していない時間はとにかくのんびりしたかったのです。
しかし旅館へ向かう道中も、旅館に着いてからも、ひっきりなしに会社から電話がかかってくる。
休みを取る前にいろいろな実務を片づけたり、他の社員に振ったりして、ちゃんと休める算段はつけてきてます。ほとんど今尋ねなくてもいいような内容ばかりで、嫌がらせの電話でした。
彼女は嫌な顔ひとつしない。でも心配そうでした。
そんなぼくのために、旅館の廊下にある自販機で買ってきたビールをそっと差し出してくれる。涙が出るほど嬉しかった。
でも夜になっても、ぼくは彼女を愛することができない。
彼女はそんなことは気にしていないかもしれませんが、男としてはやるせなかった。
いつもありがとう。
何もあげられていない、そんな思いがずっとありました。
翌朝、朝食前のぼんやりした時間。
ぼくは急に、思い立って手帳とボールペンを手に取り、「絵を描かせて」と彼女に言いました。
なぜそんな行動をとったのか、いまだにわかりません。
長年、封印のような形で忘れていたことだったから。
恥ずかしそうに彼女はじっと自然なポーズをとって、ぼくが描くまま自由にさせてくれました。
ぼくは久々に描く行為に没頭し、我を忘れました。
絵を描くにはしょぼい紙、しょぼいボールペン。
それでも静謐な、まぎれもなく芸術的な時間でした。
そんな中、ふいにパシャリ!という音が。
彼女は描いているぼくのことを写メに撮ったんです。
「おいおい、動くなよ」
「へへへ♡」
描き終わって絵を見せると、彼女はとても喜んでくれました。
ぼくもしばらくぶりの絵だったけど、そこそこの出来に誇らしい気分でいました。
そして、あ、そうそう、とばかりにさっきぼくを撮った写メを彼女に見せてもらいました。
そして、その写真を見たぼくは、驚愕しました。
そこに映っているぼくは、到底自分の顔とはおもえない顔でした。
とても、良い顔だったんです。
日々の壮絶さにいつも尖りきった目じり。
口元にはいつも仕事のできない者を見下すようなあざけりの笑いがあった。
当時のぼくの顔。
大人になっていくことはこういうことだろうと思っていました。
しかし今、この写真の中の、絵を描いている男は違う。
とてもリラックスしていて、優しそうな表情。
誰なんだ。
おまえ、誰だ?
このままではいけない。
この時、ぼくは心からそう思ったわけです。
2年前、ぼくは自伝的小説なるものをしたためました。
好きだった絵を放り出したり、ニセ音楽事務所に詐欺にあったり、絵画教室を一時閉鎖するに至った出来事など、さまざまな記憶の残滓をつづりました。
彼女とのことも刻んでいます。
原稿用紙にして500枚というボリュームですが、電子書籍という形で販売させていただいております。
芸術に関する専門書でもなければ、何かをブレークスルーしたい若者に向けての自己啓発書にもならない、きわめて不適切な奇書かもしれません。
それでも、突破口の見当たらない壁と向き合っている誠実な、どこかの誰かに、なにかしらの起爆剤になりうると信じております。