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2024年5月、作品価格をすべて上げた理由。

「材料費がかかっている」
「時間をかけている」
「手間暇かかっている」

作品に価格をつける時、若いアーティストは特に悩む。「本当にこの値段でいいのだろうか」と。ぼくも活動開始したばかりの頃にはずいぶん頭を悩ませました。

あまりに安い値段をつけていた頃に、よく人から上にあげた3つのことを理由に「ちゃんと値段は考えないと」と言われたものです。もちろん価格をつける際に考慮しないといけない重要な事柄。でも長い間、なんだか腑に落ちずにおりました。ある画家の先輩からは「個展に作品かけるごとに金額は上げないといけない」という教えも頂きました。もちろん「八田君、安すぎるよ」とも。

上の3つ。確かに現実的に考えて価格を算出する理由になる立派な要素なんですが、どの項目も「受け取る人にとってあんまり関係なくないか?」とどこかでいつも思ってきた。誤解されると困るのですが「アートが高すぎる」という意味ではありません。もちろんHachi作品が「安すぎる」ということが言いたいわけでもない。ただ、そんなふうに単純に換算していいものかと思うのです。

労力かけた=金額高い。これって「努力したら報われる」「花束あげたから付き合え」みたいな、思惑の押し付けみたいな気がしてあまり気分が良くないのです。もちろんそういう道理で成り立つ世界線もあるし、それはそれで認めるべき価値基準です。

しかし、その延長線で言うと、映画館の料金はなぜ一律なんだろうという疑問も湧いてくる。制作日数も予算もさまざまな映画作品。「アバター」も「カメラを止めるな!」もエントランス料金は同じ。ジェームズ・キャメロンが「めっちゃ金かけたから料金高くとる」とかジャッキー・チェンやトム・クルーズが「体張ったからいつもの倍入場料払え」とは言わない。そもそもの設定された映画料金ありきで制作する。その後は上映規模やソフト化で微調整はあるのでしょうが、それらも相場で整えられている。いわば映像のアート作品なのに。(映画館で一般客にたどり着くまでの流通システムの過程で、いろいろな金額のやり取りがあるだろうことは想像がつきます。ここでは話をざくっと捉えておいて、言いたいことが伝わるように書いています)

映画産業が芸術作品の流通システム上で間違っているという意味ではなく、つまりあらゆるものの値段を十把ひとからげにできないということです。皆が当然だと思っている価値基準で、ぼくらが作っているようなアート作品のたぐいの値段を仕分けなどできない。材料費かけた、時間かけた、労力かけた、だから〇〇円です、という単純明快な換算はしっくりこない。ネームバリュー云々なんでものもいまいち胡散臭い。いえ、算出した結果、この方程式通りの数字になっていてはいけない、という意味ではないんです。これはぼく個人的な感覚の問題といえます。

また、他の人の作品の価格がどうこう、という話ではありません。あくまでHachiの作品の、自分の納得度合いのお話。

そしてこの数年で少しずつぼやけていたものがゆっくりと答えの輪郭を浮かび上がらせてまいりました。その答えとは、

Hachi作品の値段は未来への金額。

どういうことかと言いますと、最初にあげた3つの項目「材料費、時間、労力」これは作品を完成するまでにかけ終えた、いわば「過去の経費」。この過去に費やしたものにつけた金額というのが今までしっくりきていなかったのですが、そうではなく、今後さらに良質な作品を作り届けるための「未来の経費」「次へベットするためのお金」「グレードアップした個展開催に使ってくれというお金」という解釈が、ぼくにはしっくりくる。

過ぎ去った時間の中で費やしたもの、それらを補充するお金であるより、未来をつくるためのお金、このほうが何となく晴れやかな感じがする。健全で自然な気持ちになる。結局、お金はお金、何も変わらないのですが。気分だけの問題かもしれません。

すでにやったことに対する金額、ではなくこれからやろうとしていることに対する金額

この答えにたどり着いたのが、今回の値上げにつながりました。

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