僕が切り抜いたぼくと、ぼくを切り抜いた僕。
八田員成
あらすじ
主人公・七瀬員也は、子供の頃から憧れていた大物漫才師が司会するテレビ番組にスタジオ出演を果たす。
切り絵アーティストとして。
華やかな舞台に立つことができた七瀬だったが、それは自分自身の努力ではなく「アートという、自分の愛するものが連れてきてくれた場所」だと知る。
そんな七瀬がこの日を迎えるまでには過酷な日々を潜り抜ける以外に道はなかった。
パワハラ、それによる性的機能の停止、見失った自分との再会、創作への情熱、恋愛、不倫、逮捕…
様々な困難は、彼にアートと人間についての問題をまざまざと突き付けるのだった。
読後、絵画教室の生徒が退会していくかもしれない覚悟で臨んだ意欲作。
記憶
目を閉じると思い出す光景がある。
古びた県営団地の五階。金属のドアを開いて右手の三畳の部屋で絵を描く、ランニング姿の少年がいる。サラサラの前髪に隠れそうな瞳は、爛々と燃えている。その後中学校生活の三年間を丸坊主頭で過ごしたのち、待望だった髪を再び伸ばし出すと、なぜかチリチリの天然パーマになっていることが発覚するが、それはまだ先の話だ。サラサラの長い髪のせいで少年は、よく女の子に間違えられた。
少年は自ら滴り落ちる汗にも、部屋に差す太陽の明かりが少しずつ傾いていくことにも、一切気にかけず黙々と絵を描いている。同い年の子供たちが外で遊んでいるだろう時間。彼以外の誰かと誰かが、どこかの公園で仲良くなっていくことなんて全くおかまいなしだ。興味ない。
彼が向かうちゃぶ台の上には何枚もの、黄色い紙が散乱している。今では見られなくなった、いかにも質の悪い折込チラシだった。スーパーとか個人商店の電器屋の、手書きで書かれたチラシの裏は何も印刷されておらず白紙で(正確には黄色だが)、少年はそこにボールペンで絵を描いている。その描きっぷりは一心不乱に、途切れることを知らない。一人っ子の彼には日中邪魔するものはなく、両親が帰ってくるのはもっと後の時間だと分かっている。
少年は時を経てこれからもたくさんの絵を描くことになるのだが、それが自分でも何のためなのかは知る由もない。学校から応募するコンクールではほとんど優秀賞だの入選だの、何かしらの栄誉をもらう。環境や人権啓発ポスターなどの、大人が押し付ける、よくわからない教育関連の公募だけでは満足できず、少年誌や大人向けの雑誌などにも絵を送り、掲載される。小学生向けの雑誌での、自動車のおもちゃのデザインコンクールでは、グランプリをもらう。水陸両用カメラという賞品は、小学五年生の彼にとっては無用の長物と言えたが。また、のちに国際的映画監督にまでなるコメディアンのテレビ番組にも絵を送ると、その番組のファンブックにも少年の絵が掲載される。
幼い頃の記憶。
ぼくが最初に思い浮かぶ光景だった。その光景とともに、点で散らばった数々の出来事が、同時に呼び起こされた。
記憶では、絵を描いている自分を別の視点から見ていた。本来なら、黄色い裏紙とそこに線を走らせるボールペン、それがぼくの見ている世界として映像化されるはずだったが。記憶の発掘作業とはそういうもののはずだ。それなのにどういうわけか、まるで映画のワンシーンを見ているかのように、ぼくらしき少年の、わき目もふらず絵に没頭する、華奢な肉体を眺めている。
誰かに指示されたわけでもない、何かの目的を遂げるためでもない、それは屈託のない飽くなき作業だった。今やっていることがどんな場所へつながるというのか。ぼくや誰かに特別な何かを与えるとでもいうのか。どうあれ、何の思いもそこにはないのだった。
黄色いチラシとボールペン。
それがぼくの最初の画材だった。
プロローグ あの人
十日ほどで二〇二〇年も終わるというその日、ぼくは東京はお台場にいた。
ぼくの住む町から新幹線、さらに乗り継いで最寄り駅へ到着するまで三時間を要する場所に降り立った。
十二月だというのに寒さなど感じない。寒さどころか、いま自分が空腹なのか喉が渇いているのかどうかさえ、よく分かっていなかったし、初めて目にするこの観光名所の景色をしっかり味わう余裕もなかった。そして、約束された時間に対して、早く着き過ぎたのかそれとも良い塩梅なのかもわからぬまま、テレビ局の入り口を探してうろうろと大きな建物の周囲をさまよっていた。毎週欠かさず見ているテレビ番組に、ぼくは出演するためにここへ来た。
どうやら最初に「ここだ」と信じて入ろうと思っていたエントランスは見当違いのようだった。長い長い階段を上った先にあったのは、観光客向けの土産売り場やゲーム機の設置されたホールだったようで、せっかく労した行程をまた引き返す羽目になった。並行するゆったりとした階段を尻目に、下っていくエスカレーターを息を切らせて駆け下りた。コロナ禍のせいで、この巨大なエスカレーターにはぼく以外誰も見当たらず、この無作法は許しを乞うまでもなく実行できた。上りはわざと階段を使って悠然と上り詰めた。それは気持ちを落ち着かせるための時間稼ぎだったが、そんなふうにしてこの長いスロープをわざわざ階段を使って上る利用者など、普段ほとんどいないに違いない。
十二月だというのに軽く汗をにじませながら、「このままどこから入るかも分からないまま、時間に間に合わなかったらどうしよう」という不安に襲われた。
ぼくは、兵庫県の片田舎で長年暮らしてきた。一時期、地元を離れた土地で暮らしたり、それなりに繁華街に能動的に出向いたりして、何となく現代社会に生きる勘のようなものは鋭い方だという自負があった。例えば見知らぬ都会に放り出されても、何となくこっちへ行けば目的地に着くだろうな、というような勘だ。だからたとえばテレビ局のような特異な建物など、どこからどう行けば関係者入口にたどり着くだろうとか、「ここは立ち入っちゃいけない」「ここは入っていい」といった判断を働かせることなど、造作もないと心から信じていた。もう一度言うが、それは兵庫県の片田舎という限られた場所で暮らしてきた、しがない男の信じてきたことに過ぎない。
そして今、今日、この日。
ややもすれば涙が出そうなくらい情けない気持ちでいっぱいだった。全く、どこから入って行けばいいか見当も付かない。
本当にこの建物の中でテレビ番組の収録が行われてるのだろうか。
ともかくひとつはっきりしたことがある。本当に文字通り「片田舎で培われたいろいろな経験則がもたらす勘」みたいなものは所詮「片田舎で培われた」に過ぎないものだということが立証された。コロナ禍にあり、閑散としているため、人の流れがないせいもあった。
尋ねる人も見つからず、じりじりと時間が過ぎていく。ただあてどなく足早に行く自分が滑稽であった。
ここは実は、観光客向けに作られた建物で、芸能人や関係者が出入りするぼくが向かうべき建物は、どこか離れた場所にひっそりと存在しているのではなかろうか。もしそうだとすると、今から調べてそこへ向かうことは約束の時間に大遅刻するレベルなのではないだろうか。焦りと不安はもう少しで発狂しそうなところまで届きつつある。
結果から言うと、無事たどり着いた「本物のエントランス」はちゃんと、このばかでかい建物にあったのだが、どこかのタイミングでてくてく闇雲に歩きまわることをやめたぼくは、小さな売店のようなスペースを発見し、そこに詰めている人に正式な入口を教えてもらうことができた。きっと普段ならこの売店にもたくさん客が並んでいて、その存在にすぐ気づくことができていたのだろうと思う。とにかく藁をもすがる思いで足早に近づいた。こんな調子で尋ねた気がする。
「あの…すいません…『ワイドNOショー』という番組に出演する七瀬員也という者なんですが、ぼくはどこから入ればいいのでしょうか?」と。
何度考えても、そういう聞き方しか思いつかなかった。まるで記憶を失った者が「私は誰? ここはどこ?」とでも質問するみたいに馬鹿げた聞き方だった。
「ワイドNOショー」とは、全国ネットのテレビ番組で、日曜朝に放送される情報バラエティ番組である。そんなメジャーなテレビ番組に出演しようという人間が、テレビ局への入り方ひとつ分からない。大阿呆のような気分だ。
こんな情けなくて恥ずかしい質問はないと思う。しかし同時に、なんでこんなに入口を分かりにくくする必要があるのか、とも思う。でもそうする必要が、あるよな、と今なら分かる。どう考えても一般の人間が近づきやすく、出入りしやすいような佇まいであってはならない。意図的に仕組まれた構造なのだろう。実際、やっとの思いでたどり着いた関係者用のエントランスは、まず制服に身を包んだ警備員の放つ、無表情なオーラが匂い立つ、華やかさとは無縁の場所だった。恐らくこのエントランス前を、ぼくは一度遠巻きに通り過ぎた気がする。けれどそこから感じる雰囲気は、何となくじっと見てはいけないような気にさせられたし、立っている警備員たちにも声をかけづらいものを感じ、視界から無意識に消して、ありもしない架空のイメージを持った「芸能人が出入りする入口」とやらを求めてさまようことを選んだのだった。
つまり、ぼくが今から足を踏み入れようとしている場所はそういう場所なのだった。一般人が気軽に入っていけもせず、気軽さを感じさせないエントランスを所有する場所。それこそがぼくの招かれた場所なのだ。そう思うとぼくは更に緊張感で口の中に変な味が広がっていくのを感じた。
これからあの人に会う。
その事実で心が充満していたけれど、冷静に言い換えれば全国ネットの有名なテレビ番組に出る、とも言えるし、仕事のひとつとして東京まで来た、とも言える。しかしそれでもやはりぼくにとっては「あの人に会う」ということなのだった。
この文章が、この先何年後までの人々の目にふれるか全く想像できないが、とにかくこの時代においてぼくのような四十代の男が、関西出身の人気お笑い芸人Mという人物に会う、というのはそれなりに人生における事件だった。ましてやぼくは、お笑い芸人でもなければ芸能人でもない。そう、同業者というか同じ世界にいる人間だって会うことが容易でない人物とこれから対峙する。まともな精神状態でいられるわけがない。
もう一度言うがぼくはお笑い芸人ではない。そして芸能人でもない。そんなぼくが、これまで遠い場所にしか存在しなかった、とても尊敬してきた人物と会える。あの人は関西に住む人間なら誰もが、テレビやラジオで見てきたヒーローのような人だった。そんな人と会える。
そういう道筋をたどることになったのはなぜか。
運が良かったから? いや違う。ぼくが頑張ったから? いやそれも違う。
ぼくには分かっていた。それは、「ぼくが愛しているもののおかげ」だった。「ぼくが愛しているもの」は、ぼくが行くはずのなかった場所へ連れていき、ぼくが会うはずのなかった人々と出会わせ、ぼくに見るはずのなかった景色を見せてくれるものだった。
「ぼくの愛しているもの」、それはアートというものだった。
アート。
それは、生まれてからずっと当たり前のようにそばにあって、時には救われたり、時には窮地に陥れられたりしながらも、つかず離れず付き合ってきたものだった。
アートと言う言葉を英単語から生真面目に解釈すると当然「芸術」という日本語が当てはまるのだが、ぼくの言うアートとは、たとえば人によって見えている色が違うように、聞こえてくる旋律が違うように、定義があやふやなくせにそれでいてしっかりと存在するものだ。
ある人にはそれがピアノを弾くという行為だったり、またはピアノの音を聴くという行為かも知れない。野球だったりサッカーだったり、スポーツの場合もあるだろうし、人を説得する、とか笑わせる・楽しませる、書くこと、ものを売ることなど、いくらでも挙げたうえでそれらは全部あてはまる、と言える。
家庭を持ち家族を大切にする、といったことも「アートに生きる」と言える。ぼくに見える世界では、表面的な形にさほど意味などない。
これは個人的に思うことだけれど、それぞれが抱えるアートというものは自分の凄さや技術とか腕前を誰かに見せつけるものとして使ってはいけない。たとえば優秀な格闘家がその技でもって人を傷つけてはいけないのと同じように、勝利を他人に誇示して、力の差を見せつける道具にしてはならないように。誠意を持って接することでアートというものは、人を別の場所へと連れ出してくれる。あなたも、きっとどんな世界へでも行けるはずだ。この日のぼくのように。
第一部
cut 1 ぼくはまだ、僕を知らない
人が何かの行動を起こすとき、理由とか動機とかではなく、「見えざる者によって何かしらの薪をくべられた」としか言えないような原動力の存在を感じることがある。
あらゆる物事に対して動きが鈍く、優柔不断なぼくのような人間だけが持つ性質かもしれないが、燃料の温度や質量は違えど、誰もが人生で一度や二度、そういう原動力の存在を感じることはないだろうか。
二〇〇五年九月。それはぼくが「自分のアートに生きる」人生をスタートさせるまでの重要な熟成期間の始まりであった。振り返ることができる今、そう言える。
ぼくが三十歳になるその年に入社した会社にはその後、八年間勤めることになる。セールスの仕事だった。結果、この会社での日々はあらゆる面で過酷な環境ではあったが、そもそも強い意思でここへの就職をぼくは選んだ。これまでのぼくの人生で、初めてまともに勤め上げた就職だった。他の人の生き方がどうあろうと、それは紛れもなく「ぼくの強い意思で選んだこと」がもたらした勤続年数であり内容ゆえの「まともに勤め上げた」だった。
厳密に言うと、強い意思で選んだのは「会社」の方ではなく、「セールスの仕事」という業務内容の方だった。確信犯的に留年をし、五年かけて大学を卒業した後、何となく採用された印刷会社を三か月で辞め、転々とバイトで食いつないでいた二十代。そんな日々に充実感はなく、若さという特権でいろいろなことが許されてきてたが(許されているとぼくが勝手にそう思っていただけだ)、さすがに三十を前にして見つめ直す必要性を感じた。
いかにこれまで周囲の吹聴や安楽に流されて、自分の意思で何かを選び、獲得する実感も知らずに生きてきたのか、ということについて向き合うことにした。
あらゆる取り組みや姿勢は、環境そのものに反映する。百万円かかるセミナーへの参加には、百万円を学習に注ぎ込む覚悟のある人種との出会いが待っているし、安価で長居の出来るファミレスには、安値に釣られて群がる、暇をもてあました層の人種による居心地の良くない喧噪がつきまとう。人生は不条理なようでいて、どこか冷徹なまでに合理的だ。なぜ自分には良い事が起こらないんだろう、という問いかけは、そのような問いかけをする自分そのものを変えることでしか解消できない。ゆっくりと何年も時間をかけて、そのことを知らされた。
ぼくにとって問題だったのは、バイトで生きるか就職するか、といった表面的なことではなくて、どう生きるか、何をしたいのか、という本質的なことだった。この小説を書いている今でこそ、ぼくはぼくのすべきことを知っているけれど、とにかく二十代の終わりに心を蝕んでいたのは「自分が何をしたいのかわからない」ということだった。
好きなものはたくさんあった。
映画を観るのが好き、ギター弾をいたり音楽を聴いたり、ビールを呑むのが好き、女の子と話すのが好き、などといった趣味とも言えない他愛もない嗜好はいくつかある。しかし自分の人生に、何がとは言えないけれど、もっと大きな乗り物のような存在が必要だと感じていて、いくつ好きなものを挙げたとて、強固で大いなる何かにそれらが結びつくイメージをうまく描けなかった。あるいは、そんなものの存在などなくても生きていけるのだろう。しかしぼくの心の中に芽生えた違和感は、ごまかせないほどに飽和していた。
おれは何がしたいのだろう。
ぼくのものの考え方はある種、極端なところがあり、時には誰かを呆れさせる。けれどそれが、問題を突破口へと導くことになることもあった。この時のぼくの発想がそうだった。もっと後になって言えるのだが、ぼくの人生においてうまく転んだ例だ。
何がしたいのか分からないのであれば、その逆を発想してみることにした。
つまり「したくないこと」とは何だ?
そしてそれはいとも簡単に答えが出た。それは営業の仕事だった。つまりセールスの仕事だ。子供の頃から一人で過ごすのが好きで、人と関わるのが苦手だった。絵を描いたり、少人数の仲良しだけで遊んだりする子供だった。地域の野球や行事ごとには一切参加せず、家でテレビを見たり本を読んだ。クラスで絵を描いてみせたり、面白いことをやったりして注目を浴びるのは好きだったけれど、どこかで本音をさらすことを避けていた。スポーツのように、結果で他人と競い合うようなものも苦手だった。
そんなぼくにとって、「物を売る」ために見知らぬ他人に会いに行き、「ものを売った」数字で他人と競う営業の仕事は、子供の頃から避けてきた二大要素が見事にドッキングした仕事だと思っていた。ぼくはなぜか、自分の人生においてこの「最もやりたくないこと」を今やるべきだと思った。つまり今必要なものは、自分の中の何かを破壊し、新たな芽が出るまで、これまでとは違う井戸から汲み上げた水をやるべきだと。手に入りやすかった近所の川の水とは、まるで構成する要素の違う水を。感覚的にそうすべきだと思った。というより、消去法的に考えていった挙句、他に手立てがなかったと言える。
あらゆる局面において、誰かと競い合うということをこれまで避けてきたわけだが、長い人生の中で一度くらいトライしてみればいいじゃないかと思った。それはどこか軽みのある気分、またはノリに近い境地だった。他にしたいことなどないのだから。つまり明確な数字による成績を獲得し、トップセールスマンを目指すということだ。ずっとあやふやな運命を頼りにして生きて来たロマンチストのぼくが、これまで持たかった目的意識だった。
出来ないことだからやりたくない、ぼくの人生にはそういうラベルを貼り付けてしまいこんできた項目がいくつも胸の中にあった。しかし本当にそれらは「出来ないこと」なのだろうか。少なくとも、傷ついたり失敗することを恐れて「やらない」という選択をしているうちは確認のしようもないことだった。自覚はある。
「何がやりたいか分からない」
そんな人間がまずすべきことは己自身を知ることだ。とにかく踏み出そう。
結果やっぱりおれには営業の仕事は向いてない、という結論にたどり着くかもしれないし、トップセールスマンを目指すその過程で、今まで自覚のなかった才能みたいなものが盛大に開花し、これを天職とする人生もあるかもしれない。最高の伴侶とも出会い、案外平凡な幸せをあっさり手に入れる未来もあるかもしれない。
勉強もせず、スポーツもせず、部活もしなかった学生時代。バンドの練習と称してダラダラ酒を呑んだり、授業をさぼっていた大学生活は都合五年費やした。幼い頃から好きで続けていた絵を描くことは、思春期になる頃には「女の子にモテない」という理由から、無造作に投げ出した。すべてを中途半端にしてきた後悔がある。だから今こそやり直す。
つづく
cut2 愛の時間
ぼくが就職したその会社は、店舗での営業とは別に、外商営業を主な業務としていた。扱っている商品は教育的な商材で、幼稚園から高校、一般家庭を顧客とする、地元では名の通った零細企業だった。県内にある三つの店舗にはそれぞれ社長、その息子二人が運営の座に就く、典型的な田舎の家族経営で、昭和のバブルを潜り抜けてきた団塊の世代である社長の剛腕ぶりは、地元にしっかりと根を下ろす経営状況から見ても、入社前に何となく想像がついた。
面接は社長本人が行い、その時にぼくは
「この人だ」
と思った。元気いっぱいの口調で明るく迎え入れてくれた初老の社長だったが、その貼り着いた笑顔の向こう側に、相手の一点のしみも見逃さないような鋭い眼差しが見え隠れしている。厳しい人物だと一目でわかった。甘ったれたぼくの性格に活を入れてくれる格好の存在。
絵を描く、本を読む、映画を観る、など自分の好きな事だけをやって生きてきたぼくだった。今にして思うのだが、人間は皆その人生において、一定の過酷な期間を経験すべきである。たとえば体育会系の部活、極めてハードルの高い受験戦争、受けては落ちてを繰り返してでも希望の一社を目指して行う就活など。それらいかなる状況もぼくは避けて通ってきた。水分を含んだ雑巾から、最後の一滴を振り絞るようにして、自らに加わったストレスによってのみ人は、自身の本性を知り、人としての体幹を鍛えることができる。ぼくにはそういう時期を必要としていた。営業という職種、そして見るからにやわな社員を見逃さない態度の社長。それらはぼくが望んだ通りの環境であった。
しかし後に、まだこの頃には浸透していなかった言葉、
「パワハラ」
「ブラック企業」
の二つの言葉は、掛値なく、この会社のような環境のために生まれたものだと思い知る。間もなく心身ともに蝕まれた挙句、過飲、めまい、情緒不安定、男性としての機能が一年半の間不能になるなどの状況に見舞われるなど、この時のぼくはまだ知る由もなかった。
一日の業務はとてもシンプルなものだった。与えられた地域へ社用車で赴き、日が暮れるまで商品を売ってくる。帰社後は業務日報提出と翌日の準備をする。ただそれだけだ。
しかし、店舗を持つこの会社が取り扱う商品は、数百円の小物から何百万という金額の大物まである上、それぞれの商品が多岐に渡る性質を持っていた。取り扱うにはそれなりの知識が伴う。
大口の仕事へつなげるための種まきとして、小口の商品を持参してまわったり世間話で情報収集してまわる。いわゆるルートセールスであり飛び込み営業を必要としないぶん、日々の伏線張りとその回収を良い塩梅で行い、売り上げにつなげる。客層が企業ではなく学校、個人、趣味のコミュニティなど多彩だったので、それらはある意味ではざっくばらんな交流と言えたが、とても細やかな言葉選びや振る舞いを場面ごとに要求された。
仕事の流れは一言でシンプルにまとめるのは容易だったが、業務は煩雑で動きが重たい。各店舗や客からの電話をガラケー一本で受けつつ、相手先で御用聞きをこなす。特に社長からの電話に遅れたり、客からの電話への折り返しを怠ったのが知れると、帰社後に社長から二時間近い怒号を浴びることになる(皮肉を込めてぼくはそれを、心の中で密かに「愛の時間」と呼んでいた)。入社後間もなくして、世間知らずの三十路男にとって、これまで味わったことのない厳しさを思い知らされた。
尊敬するしない、といったぼくの個人的な感想は別にして、一人の人間として学ぶことが多かったこの社長の存在についてまずはふれておこう。
当時、六十歳まであとわずかだった社長は一代でこの会社を興した。
もともと、現在と同じ商材を扱う、別の会社に勤務していた二十歳そこそこの若者だったこの社長は、わずか一年少しで売り上げトップを叩き出した。それもライバルに圧倒的な大差をつけて。いろいろな軋轢と戦いながらも退社し、元勤務先のあるこの地元に(今でも存在している)、自身の会社を作った。入社後四年を経ての独立、というスピードだったと確か聞いた。
彼はこの業界の知識が全くないまま入社し、次々と音をあげていく同年代のライバルたちをしり目に、勉強と努力を重ねた末、結果を出していったわけだが、得てしてもともと素養のない者がその積み重ねの結果、手練れを出し抜くということは往々にしてある。マイナスからスタートし、地と汗と涙でプラスに変えていったという、このあたりの経験が社長の揺るぎない自信となっており、
「勉強しない者、努力しない者は怠けている」
「稼がない者は悪」
といった強い矜持、または清廉な信念のようなものが固まっていったのだろう。
「わしはやってのけた、なぜお前らはやらない?」
という判断基準で、毎日のように社員のミスや「出来ていないこと」に目をつけては激しく糾弾した。客前であろうともだ。入社当時のぼくは、ぼく自身を「何も得ずにボーっと過ごしてきた青年」として自分をこれから高めていくという強い目的があったので、それ以前までこの会社で続いてきた目まぐるしい離職率を、結果八年間勤めることでストップをかけた。
社長は日々、事務所を飛び越え店舗にいる客にまで聞こえるほど大きくて通る声を発し、その言葉は汚く、湿っぽい攻め方で社員を締め上げた。そこには問題を改善・解決するという意思は微塵も感じられず、ただただ「出来るわし」と「出来ないお前」を洗い出すだけの作業でしかなかった。それでもぼくは、ぼくのピュアさというか、育ちの良さもあってか屈託なく、周囲にこう言っていたものだった。
「いつか、社長とケンカできるくらい仕事が出来る男になってみせます!」
などと息巻いていた。そんな日は来なかったが、なんとも自分で愛しくなるようないじらしい根性の若者だったと思う。
様々なミスや失言を取沙汰されては注意をされ、そのほとんどが理不尽なものだったが、彼の説教からその後の人生で活かされ続けていることも、実は多くある。人への接し方、礼儀に関することだ。物事の順番、誰かに話して良いことだめなこと、厳格な縦社会を持つコミュニティへの外野からの飛び込み方、「商品を売るということはその商品を必要としている人のため」などといったことで、どれも重要なことばかりだ。しかしそれらの教わったという恩を差し引いても緩和されぬほど、激しい言葉や冷淡な態度による精神的虐待は毎日のように繰り返され、それらの言葉選びや度合いはまた、法にうまく触れないように計算された狡猾なものだった。
cut3 食い殺す
入社後、ぼくが配属された店舗は、県内に三つあるうちの本店にあたるところで、社長が運営する本丸だった。ぼくの住む姫路市内にあり通勤には便利だった。これまでの文章を読んだ後では「配属先が社長のお膝元とは、なんて運のないやつだ」と思われるかもしれない。しかし、その実の息子二人が、それぞれ店主を任された別の二つの店舗のどちらかに配属されていたら、ぼくはすぐに辞職していたかもしれない。ぼくと同年代で少し学年が上に当たるこの実子二人は、いわば「怪物から生まれた小怪物」と言えよう。怪物から生まれ、怪物の背中を見て育ったぶん、あらゆる点で、親分の表面を真似ただけの、骨子の歪んだ本懐を有しており、腹を割った交流をするにはとても厄介な人格なのであった。
人間は、自分がされてきたことしか他者に為すことができない。暴力を受け続けた者は暴力でもって表現する。嘲りを受けた者は嘲りでもって相手を愚弄する。蔑みを受け続けた者は蔑むことで相手の存在を認識する。もちろんその逆、愛された者は愛することで相手を敬うものだがいずれにせよ、人の行動は自ら受けた行為をストックとして利用するものである。
実子二人はお互いに反発しているように見えて、君臨する父親の檻から抜け出せずにいる小鳥のようだった。また、この二人に対してその父親である社長は、「他人である、他の社員たちと同等に息子たちに接している」というアピールに執着していた。当初、世間知らずのぼくはそのアピールにすっかり騙されていたが(能力があるのであれば、実の息子以外の社員であろうとその者に会社を継がせるべきだ、というような言動など)、自分の作った会社を血のつながった子へ渡したいのは、どうあがいても切り離せない人情である。それゆえの他者へのアピール、つまり実子二人にも厳しくあたっているように迫真の演技で見せることを始終貫いていた。
彼らに対する「愛の時間」は、そのお遊戯の重要な小道具だった。
二人の息子はこの父親からの「真意を知らされないまま行われるなんちゃってパワハラ」に心から嫌悪していたようだが、第三者から見ると、アクション映画の殺陣のごとく、急所を見事に外したプロレス技のようなものだった。明らかに我々社員とは一線を画した手加減で、実弾を込めていない銃撃戦さながらの「愛の時間」ではあるが、「実の子にも容赦しない敏腕経営者」を演じ切るには、二人の実子や昔からの客に対してはそれなりに効果があるようだった。
県内にそれぞれ離れた三つの店舗ではあるが、商品の貸し借りや仕事内容によっては社員同士が行き来することもあり、日常的に干渉しあう存在だった。当初、二人の実子はぼくに対して「どうせこいつもすぐ辞めるだろう」くらいにしか思っていないようだった。敵にもならないような相手をわざわざ注視しないものだ。しかし数年後に、ぼくが仕事で成果を上げるようになってくると対応が変わっていくことになる。正確に言うと二人の実子は当初、ぼくに対してどういう態度に出ていいのか戸惑っているようだった。「なかなかやるじゃねえか、お前」といった良いアニキ的な寛容な態度から、時を経たのち、あからさまに足を引っ張るという行動に出ることになる。
どんな組織においてもそうだが、潰したい相手を潰す方法はひとつしかない。それは、組織で一番力を持つ者に相手の失態をささやくことだ。動物であれば「食い殺す」に値するこの行為は、どんなコミュニティでも万能の効力を発揮する。事実、この会社以外の場面でもぼくは身をもって、似たような行為を受けててきた。
誰かが誰かを、潰したいと思うほどの目ざとい存在と感じる時、それは相手を脅威と感じている時だ。しかし自分で言うのも何なのだが、ぼくは大人しくしている分には基本的に他人から脅威と思われない性質の人間のはずだった。そんなぼくが相手に脅威と思われる場合が発生するのは、仕事場なりグループ(合コンといった少数のものをふくめ)で、本気を出して情熱的に行動することがあるからだ。
この、人間社会における「食い殺す」行動の厄介なところは基本的に本人に見えないところでことが運ぶため、こちらがそれに気づいて、構えの姿勢をとるのに時差が生じるところだ。ぼくが業務についてのつまずきを、兄の方に相談すると、そっくりそのまま「すでに手の施しようのない過ち」として社長へ話があがる、と言った具合に。この「食い殺し」が社長へそれなりに効果が出始めると、ダメ押しの手段として息子は、それ以外の人間も巻き込む方法を併用し始めた。ぼくが仕事で頭角を現し始めた頃、兄の方がよく客の前でぼくを静かになじった。詳しくは覚えていないがぼくを指して「この子は商品のことをまだよく分かっていませんのでぼくが代わりに」と接客中に割って入ったり、ずいぶん以前の些細な失敗についてそのまま話し出したり、そういう類の言葉であからさまに攻撃をしてきた。(ちなみに、ぼくは二人の息子店長にまめに仕事の相談を持ち掛けたが、これはぼくなりの処世術だった。つまりアニキ分気質を満足させるための行為で、実際それが功を奏して、多少なりとも可愛がってもらえた時期がある。ある時期は。)政治の世界でも見られるように、どんな集まりも内部でたたき合うことが人間のサガなのがよくわかる。
二人の息子は、漫才師のボケとツッコミのように相対する存在で、兄が小柄で小太り、弟が長身でがっしりした体型、といった具合にあらゆる点で相をなしていた。動物で言うところの群れの中で、恐らく本人たちが知らず知らずのうちに距離を取るうちに出来上がった特徴なんだと思う。それは本来の性格とは異なる、後天的な性質のように思える。ある時、父親である社長が、取引先と電話でこう話しているのを耳にした。
「うちの息子は上が冷静沈着、下が熱血漢。良いバランスなんですよ」
われわれ社員からするとどちらの息子の特徴も表面的な演技に思えた。数人の仲間で格闘ゲームをする際のキャラクター選びのように、必殺技は互いに凹凸の性質を持ち合わせた方が戦いやすい。
父親としては心からそう思っているようだったが、それすらもこの会社というゲームの中で演じているキャラクターのようにも見えた。社長による「愛の時間」(毎日繰り返す罵詈雑言)は、太陽の光が草木に影響を与えるようにして実子二人、その他の社員、そしてこのぼくに、体や心の隅々にまで変容をもたらした。
弟の方はキャラクターの椅子取りゲームよろしく、ぼくに対しての対応は兄の方と少し違うスタンスだった。細かいことにこだわらないヤンチャで豪快な営業マン、を演じていた。実際には社長の存在が恐ろしく、その本質は兄弟二人とも同じだった。
先ほどぼくは「受けた行為を他者へ為す」ということについて書いた。ぼくはここまでの文章で自分を悲劇のヒロインとして伝えたかったわけではなく、ぼく自身も彼らの性質を受け継いだことを記しておく。あくまで在職中という結界の中での話だけれど。
ぼくが在職している間に、新入社員が何人も入っては辞めていった。名前も顔も今では覚えていないくらいに。その間、ぼくも彼らを教育したり、客の元へついていったりした。そして彼らの出来ない点についてネチネチと説教をしたり、またミスを上司である息子や社長に報告した。これは上司である彼らに「出来るぼく」を見てもらうためだった。出来ない者の出来ない点を、指摘できるまでになったぼくをどうぞ見てください、というわけだ。また、彼らもそうすることでぼくを認めたりもした。「やっと話がわかる相手になったか」とでも言わんばかりに。
今思い出すととても恥ずかしく思う。しかしそこから精神的に脱出することは、彼ら親子と全面的にぶつかり合うか退社することを意味する。その結末までにある程度の時間を要することにはなったが、この間に給料は跳ね上がり、女性にもモテた。もしそういう生き方がぼくに合っていたのなら今でも仕事を続けていたのだろう。生きていく上で、どんな局面にもサバイバルはある。ここでのサバイバルは本当に血を流すわけでも死ぬわけでもない。生き方は様々だ。
つづく
cut4 その二人に、営業成績で勝つには
配属された本店だが、ぼくの他に店舗スタッフの若い女性数名と、先輩営業マンが二人いた。平たく言えば彼ら二人は、ぼくにとってライバルというわけだ。とはいえ一回り以上も年齢は上だったし、それぞれキャリアも長く、売り上げに関しては真っ向から戦ってもすぐに追いつける相手ではなかった。しかし目指す「トップセールスマンになる」という目標に関して、長期戦で臨むつもりだったという精神的余裕と互いの年齢差もあってか、この二人の存在からはいろいろ学ぶことが多かった。
彼らは、息子店長二人のように、面白いことにこれまた対照的な二人だった。
T氏は当時四十代半ばで、年齢的にはずいぶん年上に感じたものだったが、現在この年齢を上回ることになった今となっては感慨深い存在として思い出される。ぼくが入社した当時彼は、ここへ勤めるようになって五年目であった。しかしその時点で、この業界においてはすでに十年以上バリバリやって来た男で、もともと身を寄せていた東京の会社から転職して来たのだった。社長からすると、ズブの素人でもないが、自分の流儀から外れている異端児、とはいえ売り上げをバンバンあげてくるものだから、いろいろな齟齬も大目に見ていた。東京で揉まれてきた営業マンだけあって身のこなしも仕事ぶりも、スタイリッシュだった。いわゆる社長の流儀が昔ながらの堅物のそれとするならば、T氏の流儀は柔軟で現代的だった。もしこのT氏が、とても自己主張の強い性質だったら、すぐにでも社長と衝突していたかもしれないが、彼は立ち回りの才に長けていた。実体はそれなりに自我の強い人だったが、悪く言うと長いものに上手に巻かれる、環境次第で太鼓持ちにもなれる術を知っていた。
S氏の方は、T氏より五つほど年上で当時五十が目前だった。彼はこの会社で最も古株であり、三十年近く勤務するベテランだった。いわば先の息子二人よりもずっと先輩であり、彼らをおぎゃあと生まれた頃から知っている、叔父さんのような存在だった。しかし名目上は、勤務する店舗は違えど息子店長二人が上司であり、S氏は何の権限も持たされていなかった。つまりT氏と同じく、いち営業マンという立場であり、この点においてぼくとも横並びなのだった。役職というものは存在せず、同じ営業マンとしての立場があるだけだ。
また、このS氏は大ベテランであるから、その長い経歴ゆえ知識や経験もあり、人脈や客への根の張り方も年輪を重ねたものではあったが、その要領の悪さと物静かなキャラクターから、息子二人に顎でこき使われている節があった。事実、最もこの会社で長く顔を突き合わせている社長は、ほぼ毎日のように罵詈雑言を浴びせる格好の的にしていた。新入社員だったぼくよりも、その標的にされる機会が多かった。長い年月の中で、様々な社員が入退社を繰り返してはいたが、おそらく最もこのS氏を罵ることで「出来ないお前・出来るわし」を確認してきたのだろう。朝早く出社すると、社長がS氏を恫喝する場面をよく目撃した。
業界で長く実力を振るってきたT氏の、洗練された雰囲気(やせ型でお洒落だった)や営業スタイルに対し、S氏は見るからに愚鈍な体形かつ身なりであったし、もごもごした口調でどこか要領を得ない話しぶりは、T氏と絵に描いたように対照的だった。こうして書くと、優秀な営業マンはT氏で、だめな営業マンはS氏のように思えるかもしれないが、世の中の人々の趣味嗜好は様々であり、対する客の持つ人間観も十人十色だ。T氏のことを「よく口の回る胡散臭いやつ」と言う者がいれば、S氏のことを「不器用だが人当たりの良い、信頼に値する人」と言う者もいる。常に長所と短所はシーソーのように行ったり来たりしているものだ。
さて、この二人をいざぼくの営業のライバルとして捉える前にお手本として考える時、こういう表現がうまく伝わるかもしれない。
短距離ランナーと長距離ランナー。またはウサギと亀。
業界でも名の知れた営業マンでもあったT氏は先ほどの表現でもあったように「口の回る」という武器を持っており、実にその場で相手を説得するのに長けている。たとえば一軒家を販売する営業マンが、何度も何度も電話や訪問の末に信頼を獲得して販売にこぎつける、というやり方に対して、T氏は初めて会った相手にも短時間で決断させてしまう能力があった。言葉のチョイスや雰囲気づくり、努力ではどうにもならない天性のセンスがあると言っていい。
一方のS氏はその真逆だった。初対面の相手ではしどろもどろになり、どういう相手か探ったりいろいろ気を使っているうちに「じゃ、また検討します」と言って帰らせてしまうタイプだ。ところが「長距離ランナー」であるS氏は、長く時間をかけて付き合ううちに誠意が伝わり、最終的に「Sさんからじゃないと買わない」と相手に言わしめるコツコツタイプだった。時には時間がかかりすぎて、「もうよそで買った」という客が現れたりするが、どちらも諸刃の刃だ。
思うに営業・セールス・物売りという仕事は女性を口説くのによく似ている。基本的には相手が何を望んでいるのかを見極めた上で、どう口説かれたいのか、を素早く把握して相手の気持ちに寄り添って行動する。短期戦がいいのか長期戦がいいのか。長期戦を望んでいるにしても、あまりにもたもたしていると他の男に取られてしまう。どちらのタイプが相手の好みであるにせよ、どこかで奇襲戦法にも近い勝負に出て畳みかけることが必要にもなる。本当に、年がら年じゅうナンパに行くようなモチベーションが必要となる仕事だった。(現在こういう職業に就いておられる人々、もちろんT氏もS氏もだが、皆さんの名誉のために付け加えておくと、当然本当にナンパのような不埒な動機では成約にこぎつけることはできない、ということは断言しておく。あくまで勢い・身軽さという必要条件においての例え話にすぎない)
冒頭にも述べたように、この二人からはいろいろなことを学んだ。この会社を辞めて十年以上経った今でも、この二人の営業マンがぼくの中に確かにいる。それはこの二人が惜しげなく仕事のスタンスをさらけ出してくれたからだと思う。息子店長二人に関しては、本性を見せず、いかに相手に服従させるか、支配下におくか、ということだけに行動の理念が置かれていたため、実際の仕事ぶりが伺えなかった。
T氏とS氏は、どちらもぼくより十歳以上離れていたせいもあって、それぞれ気を許せるところもあったのだろう、大方手の内を見せてもらえた。人間的に尊敬に値するしないは、全く別の話だけど。それは、ここの社長が基本的には誰の顔も立てないというスタンスでいた、そのおかげだったのかもしれないが、この会社において両氏の仕事におけるスタンスや人間性など、隠すまでもなく透けて見えた。もちろん、その逆も然り。ぼく自身の弱さやずるさも、相手に見透かされていたのだろうと思う。
とにかくここの状況下では殺伐とした空気が絶えず充満しており、何もかもが弱肉強食の連鎖の中で紡がれていた。戦国時代なら、ぼくは数カ月かけて開花するまでもなく、首を文字通り取られていたに違いない。
二人の年の離れた先輩に追いつくために、何をどうすればいいか。その問いに答えを出すためにまずは受け身で動き続ける他なかった。ぼうっとしていても、何かしらの仕事には追われているからだ。しかしどんな職種であっても、能動的に動かずに入ってくる仕事は、どれも言われるがままの御用聞きのようなものばかりである。つまりは売上としてはいくらにもならないような些事のみだ。大口の商品を買ってもらうにはそれなりの信頼(先輩S氏の素質)と商品知識を持った上での技(話)術(先輩T氏の素質)のどちらか、またはその両方を獲得しなければならない。まずは日頃の業務を知る必要があり、日々の流れに身をまかせていくしかなかったが、根がボンボン育ちのぼくはけっこう長い期間その状態に甘んじて「ああ、今日も仕事だ」とせっせと片付け作業に従事していたが、この新人の様子をしばらく静観していた社長がそのうちしびれを切らし、怒号が飛ぶようになった。確かに受け身の仕事では売り上げなど作れない。
小さな注文をこなすことで「仕事をした気になるな」と鬼の形相で恫喝されたものだが、まさに言う通りだった。五百円の商品を求める人には千円の商品を、便利な商品を求める人にはより便利な商品を売る。表面的に親切な営業こそが利益を生む。簡潔に言うとそういうことだ。そういうセールスを実行するのは、もともとが気の弱いぼくにはとてもハードルが高かった。
それでも、日々小さな業務をこなしているといろいろなことが変化していくものだ。地域というものが見えてきたり、「誠実に仕事をこなすやつ」という印象を持つ客が現れたり、些細なことの積み重ねによって、突如あふれるようにして変化が訪れる。
大口の商品を購入したいと声をかけてくる人が出てきた。
「なんか七瀬君、頑張ってるし、この子の点数上げてやろう」とばかりに。
新人期間中の特典とも言える。
店舗に招いての商談は、先輩や社長に手伝ってもらいながら成約にこぎつける。しばらくそういう期間を経てくると、今度は自分が表に立ってそれをまとめるわけだが、社長が教育係としてそばについている場合は、本当に恐ろしかった。ちょっとした言い間違いや知識の浅さをその場で、客には見えない角度の表情で𠮟責し、また値引きを持ち掛けられてうろたえたりすると、これも後で責められた。言い間違いもうろたえることも、「社長がいる」というプレッシャーによるものなので、その後の恫喝タイム「愛の時間」までの流れはとてもスムーズだ。料理のフルコースばりに淀みなく流れは順調だ。とにかく胃を締め付けられる仕事だった。
過去に消えていった新人は皆、社長から受ける「愛の時間」に耐えかねて、音を上げるわけだが、この時期にぼくはよく先輩T氏に弱音を聞いてもらうことでガス抜きをしていた。まだ自分ひとりで大口の商談を任せてもらえない時期は給料が上がってもおらず、仕事の面白さも分からず、また「わしの若い頃は寝ないで仕事を覚えたもんだ」と豪語する社長の下、休みもろくに取れなかった。本当に辛く、気持ちも切羽詰まっていた頃にT氏がこんなふうに言葉をかけてくれた。いつにも増して激しさを帯びた「愛の時間」が終わった後のことだった。
「またやられてたなあ。でもな、どこの世界にも社長みたいな人はいる。ここを辞めてもな。その人間とどう接するか、いずれにせよ、いつかはそこを乗り越えておかないといけなくなるのは事実だよ」
目から鱗だった。T氏の言う通りである。たかだか三十になったばかりの人生の中で知っていることがある。
今向き合わないことはいずれ姿形を変えてやってくる、ということだ。
もちろん目を背けるのも自由だ。今後、背け続けるのも人の勝手。しかしここで、これまで置き去りにしてきた様々な問題を解決するために選んだ就職だったことを、この言葉で改めて思い出した。
T氏とS氏。ぼくはこの二人とは何度か衝突もしたし、恨むこともあった。しかし前述の言葉をくれたり、芯の部分で多くを学ばせてもらい、根底にぼくは尊敬の気持ちを持っていた。だからこそ誓ってもいた。
この二人に営業成績で、勝つ。
アクティブに狩りをするタイプのT氏と、静かに時間をかけて潜水しながら漁をするタイプのS氏。どちらのやり方をぼくが自分のスタイルにしようと決めたところで、それなりに時間がかかり、また「このスタイルはおれには合わない」と判断してから後戻りするのも時間のロスが出る。それほど、どんな世界においてもスタイルの追求というものが簡単ではないことを承知していた。絵を描いたり、ギターを弾いたりしてきたことが、他人よりもその感覚を持たせてくれていたのだと思う。
ぼくは不器用な人間である。今現在もそうだが、周囲の人々にはそう見えないらしく、割といろいろなことをスマートにやってのけるイメージがあるらしいが実は、全くその逆だ。プロローグでふれた、TV出演のために東京へ向かう日の朝。自宅の最寄り駅で通した切符を、ぼくは手に取らずにそのまま電車に乗った。そこから新幹線への乗り換え前の改札を通るまで、ただの一度も気がつかなかったのだ。緊張のため、早朝から心ここにあらずのままだったというわけだが、本当にそういう「天然ちゃん」な人間だった。不器用というのとは少し違うかもしれないが、とにかくおとぼけな性格であり、そのことを自覚しているからこそ、自分にとって「コツコツやる」ことが一番の最短距離であると知っている。つまり要領よく何かを省いたりしながら首尾よく物事に当たるということができない。
しかしながらもう一つ別の一面もある。それは奇襲戦法に躍り出るという、大胆不敵な性格もあるところだ。コツコツタイプで気の弱い男ではある。が、それを前提として、突如自分でもよく分からない馬力を使って、とんでもない行動に出ることがある。行動、もしくは発想の面において。
その辺りのぼくの性格について少しふれておきたい。
小さい頃から、様々な職業やヒーローに憧れた。映画の主人公や戦隊もののヒーローといった架空の存在から、警察官や漫画家といった実際の職業にいたるまで、本当にいろいろだ。その拙い憧憬のどれもに当てはまることと言えば、現実に自分が成る、というイメージを明確に持てなかったことだった。そういう現実的な達成感覚を持つには少し早い年齢から、すでに夢見がちな少年だったとも言える。
そんなぼくが初めてと言っていいくらい真剣に考えた道が、お笑い芸人だった。小学生の高学年くらいだったと思う。小学校へ入りたての頃、ぼくの憧れはジャッキー・チェンで、その影響でやや長髪をキープしていた。今でこそ少年が髪を長くしていても違和感のない世の中となったが、当時はちょっといじめられる対象となった。いじめとまでは言わないまでも、長髪でいることをよくからかわれた。一人っ子で、地域の行事にも参加せず、同年代の子と接する機会のほとんどなかったぼくは、小学校で出会う初めてのクラスメイトとどうコミュニケーションを取って良いかわからず、まごまごしていた。
スポーツ刈りや坊主頭の男の子が多い中、長髪で大人しい、ビクビクしたぼくのオーラは悪目立ちしたため、もてあそぶのに格好の的だった。
「女やあ~、女やあ~」
と、クラスでガキ大将的なポジションの子がはやしたてると、周囲の腰巾着部隊もそれに倣う。ケンカして立ち向かうタイプの負けん気ではなく、ぼくの負けん気はちょっと異質でプライドも高かったので、今思うと大したいじめではないにしろ、当時はとても傷ついた。かわす術が分からなかった。分からないなりに得意の絵を描いたり、テレビや漫画で見た面白いセリフや行動を真似て、みんなを笑わせたりするようになると、段々一目置かれるようになった。
小学校低学年の時、ぼくらの目の前には、目には見えない課題があった。「人気者の椅子取りゲーム」だ。ぼくの子供の頃と言えば、人気者になれる者は、スポーツが出来る(足が速い)者、勉強が出来る者、腕力の強い者、というとても単純な属性だ。今の子もそうなのだろうか。ともあれぼくは、知らず知らずのうちに、目をつけられることから逃げる防御として、「面白いやつ」になった。しかも「絵もうまいやつ」というもう一つのポジションも獲得した。
当時、すごくケンカの強い男の子がいて、クラスのリーダー的な存在だったが、一年生の終わりぐらいにはとても優しく接してくれるようになった。彼が当初ぼくをからかっていたメンバーの一人だったのか、最初から良い奴だったのかはあまり覚えていないのだが、最後の方、ちょっとぼくは彼から一目置かれていた印象が強く残っている。皆に軽く緊張感を与える彼だったから、ぼくにとってそれは誇らしいことだった。
その子は二年生の途中で転校してしまったし、特に仲が良かったわけではなかったが、ぼくはぼくでとても彼を意識していた。顔はどちらかと言うとさわやかな二枚目で、大柄なわけではないのだが、ケンカが強い。何か近寄りがたいオーラがあり、これらすべての性質はぼくが持っていないものだった。ぼくがおどけてみんなを笑わせている時も、彼は後ろの方で笑ってはいるのだが、どことなく屈託なく楽しんでいるみんなの平和な様子を、遠目から見て喜んでいるような雰囲気があった。今頃彼はどこでどうしているのだろうか。
小学校高学年になり、ぼくはよくクラスのお楽しみ会などで劇やコントの台本を書いて、仲間と演じたりした。そういうことをしながら頭の片隅で「漫才師になりたい」という思いを膨らませつつあった。とにかく面白いことを考えるのが好きだったし、思いついたことを実行してそのことで笑うみんなを見るのが好きだった。関西地域で週末になるとテレビ放送される、お馴染みの新喜劇を見るのが好きで、よく母親に大阪まで連れて行ってもらって、生の劇場でも楽しんだ。
ぼくにとって笑いというものを実践することは、苦しい現実からの逃避でもあった。つまりいじめから逃れるためでもあったし、退屈な授業中という現実から、せめて頭の中でだけでも別の世界を作って逃げ込む手段だった。実際、頭の中でだけでなく授業中に、先生や他の生徒が作り出した、緊張に満ちたやり取りを前提に、笑いを生む行動や発言もした。ちゃちゃを入れる、という行為だが子供なりに空気を読んで、無暗やたらに騒ぎ立てる他の子とは一線を画した。授業の進行や誰かの発言の妨げにならないように。たとえば終わりの会などで「誰と誰がケンカした」などという重いテーマの時は静観し空想だけにとどめる、といった空気を読むフィルターを育てていった。
ここでこれを言ったらさすがに先生が怒る。そういう先読みが出来るときは、面白いことを思いついても静観した。いうなれば大喜利を実生活で毎日やっていたのだ。緊張に満ちた空間であればあるほど、笑いを取りに行くお膳立てが出来ている。しかしその緊迫感も、過ぎれば誰も笑えない空気と化す。周囲の気分が真面目であればあるほど際立つような、面白い発言や行動を考えてばかりいた。
こんなことがあった。担任の先生とクラス中が、ちょっとしたディスカッションの中で互いに「言った・言わない」で揉める局面があり、どちらかというと和やかでじゃれ合う感じで先生VSクラスで和気あいあいと盛り上がっている最中に、ここで「トイレ行きたい」と言ったら絶対面白いだろうな、という思いが浮かんだ。小学校生活において、授業中にトイレへ行くことを申し出るのはなかなかハードルの高いことである。少なくとも三十年くらい前の子供にとってはそうだった。大事件である。ましてやぼくには好きな女の子もいた。用足しが大であろうと小であろうと、マイナスイメージであることは確かである。普段であればどんなに辛くてもチャイムが鳴るまで我慢をする。しかし、思いついてしまった。「これは間違いなく、おもろい」と。そう思うと、もうこれは取り憑かれてしまったように心を侵食していく。それを実行しない限りは。かくしてぼくは、生徒と先生が「言った、言わない」でわあわあ揉み合っている最中の、最も笑いが起きやすいであろうタイミングを見計らい手を挙げて、さもみんなが「お、あいつ、何か意見を発言するぞ」と注目を集めきったところで
「トイレ行かせてください」
と申し出た。それもさらっとクールに言うのがミソである。ここでベテラン俳優のようにたっぷりとした間を取ると、いかにも面白いこと言ったでしょ感が出てしまい、笑えないものになる。あくまで、みんなの議論の邪魔にもならず、全員で奏でる交響曲の中で打つトライアングル程度の味付けになるくらいの、声色と音量がベストだった。にやりとも笑わずやってのけた。結果は大爆笑だったし、おまけにぼくの気が合う、一番笑いの分かる友達が腹を抱えて笑ってくれた。
ここで、ぼくが小学生のこのぼくを、抱きしめてやりたいと思うくらい愛しい理由は、何よりこの時、全くトイレへ行きたくなかったという点だった。好きな子の目もある、トイレに行きたいわけでもない、それでも笑いを取ることの方が大事だった。
ぼくにとって発想=笑いであり、笑い=大喜利だった。今でも作品を作る、という仕事に臨む時、大切にしていることだ。大喜利というとつまり、大多数に対して、意表を突く驚きを伴った発想で生み出される笑い、と言える。皆がすぐさま思いつかないことを目指すのが第一条件であるが、あまりにも突拍子なさすぎてはいけない。この辺りのさじ加減が、他の子より備わっていた。
時を経て、二人の営業の先輩ライバルに勝つ最短の方法に置き換えて発想してみる。子供の頃から培った、この独特の発想方法で。そして導き出したことはこうだ。
彼らとは別の商品を売る、ということだった。
会社の主力商品が何であるかは言わずもがなではあったが、取り扱うものはそれ以外に数多くある。それが全部、主力商品以下の価格というわけではないのだった。何となく、暗黙の了解として他の商材に手を着けずにみんな営業をしていたが、何を売ろうと数字には変わりないというわけだ。
ぼくは先輩たちがそれほど知識を有していない別の商品を売るために、みんなと違う動きで営業をスタートさせた。
半年ほどでその効果は現れた。何せ、客層が変わるわけだから、これまでこの会社があまり関わってこなかった客のもとへ出向く。客の方も驚きと興味を持って接してくれた。その新鮮さと、ぼくが新入社員であるという認知も相まって、多少の頼りなさは免じてもらって購入へとつながっていった。それでもトップセールスマンにたどり着くまでに二、三年はかかったが、この「違う客層を狙う作戦」は見事功を奏し、メインの商品を購入する客層にもつながっていった。皆とは違う地面に突き立てたツルハシが、別のルートを辿って鉱脈にぶち当たる、というわけだ。
売り上げでトップに立つ。この入社当時の目標を達成した時点で思ったことは「もっとこの仕事を続けたい」ということだった。あの内気だった若者は、毎日たくさんの人々と話し、セールスをするというこの仕事を心から楽しむようになっていた。何よりも誰かの役に立っているという実感が確かにあった。
また、波に乗っている時期、人は無敵だ。特に男ならこういう無敵の時期を仕事で一度でも経験すると、その脳内の麻薬を何度も味わいたい気分になるものだ。営業の成績は多少浮き沈みが生じつつも、メンタルでへこたれることはない。狩りに行く快楽のような習性が身に就くからだ。激しく働き、豪快に遊ぶ。その繰り返しは、どんなにへとへとになってもむしろ、翌日の活力につながった。
よく女の子を呼んで呑み会をやった。いわゆる合コンで、ある年などは、一年間欠かさず毎週末開催したこともあった。合コンで知り合った女の子に、また新たなメンツを集めてもらい、違う場所で違う話題で盛り上がる。遊ぶことも営業のように楽しんだ。
そうやって出会った女性とお付き合いをしたのか? 答えはノーだ。
そういう恋愛に発展するよりも、その夜会をいかに面白おかしく盛り上げるか、そこにぼくの楽しみはあり、肉体関係を持ったり閉塞的な付き合いを個別にすることはほとんどなかった。
大量にビールを飲み、饒舌に語り、場を取り仕切る。それは十代二十代の頃ぼくが憧れていたキャラクターでもあり、本質的な自分とは違った、まるで精神的コスプレの類だったと思う。殻を破る、ということに固執した、コンプレックスのある性格への破壊行動とも言える。たとえば、厳格な家庭に育った女がふとしたきっかけで、何人もの男と遊ぶようになる、という極端な行動に似ている。この頃のぼくは肩で風を切るように飲み屋街を女の子数人と歩いたり、そういう自分の行動を誇りに思っていた。自分の人生はやっと始まり、このままどこまでも続くように思っていた。
この十数年後、切り絵アーティストとなったぼくのインスタをフォローしてくれている方が、
「サラリーマンだった頃の七瀬さんと呑み会をしたことがある」
と打ち明けてくれた。DMで彼女曰はく、
「ご活躍拝見しています。夢を叶えられたんですね」
とおっしゃっていたが、この「ちょっと傲慢な出来る男時代」には、そんな夢は一切持っていなかったので、この何年か後に知り合った女性だと思われる。きっとこの時期に知り合った女性たちは、ぼくのことを覚えていないか(よくいる、ノリのいいサラリーマンのひとりくらいの印象だろう)、恐らくは嫌なやつという記憶のどちらかだと思う。良くも悪くも調子に乗っていた時代だ。
さて、仕事におけるライバルとは違う狩場を主戦場にし始めたぼくだったが、これでハッピーエンドというわけではない。これは、ぼくのサラリーマン時代の終わりの始まりに過ぎなかった。その話をする前に、この会社へ入る前に住んでいた横浜での日々について語ろうと思う。
ぼくはこの地で、生まれて初めて殺意を覚える男と出会うことになる。
cut5 「あんた…頭おかしなった?」
二十二歳。
就職をしたくなかったぼくは、大学を五年かけて卒業した。就職はおろか、何もしたくなかった、というのが本音だった。今思い出すととても胸が痛い。ばかにならない授業料、電車・バスで二時間かかる距離の定期代、実家にいるもののそれでも食費や小遣いももらい、親のすねをかじり続けた挙句、わざと一年留年した阿保の青春時代。社会へ出たくなかった、と言う理由でたった一年を、いや一年も棒に振ったのだ。甘やかされているとしか言いようがないかもしれないが、親からは諦められていただけだと思う。
フォークソング部というクラブに所属していて、この大学にはその他にアメリカ民謡研究会や軽音楽部という音楽系のクラブがあったが、どれもその実態は「バンド部」だった。年代的にはバンドブームと呼ばれる時代から数年後で、やや下火ではあったが、バンド=十代の憧れという風潮はさほど変わらず熱を保っていた。この大学の学生たちも多分に漏れず、そして各団体ともその名前とは裏腹に内部にそれぞれいろんなジャンルの学生バンドを有していた。流行りのコピーバンドから古いジャンルまで多岐に渡っていたが、それぞれの団体はなんとなくカラーを異にしていた。フォークソング部はJ-POP、アメリカ民謡研究会はパンク系、と言った具合に。生真面目に名前と照らし合わせるとまったく理解不能なラベルではあるが、事実そうだった。
ぼくは大学生時代にバンドを組んだり、曲を作ったりしていたが、あくまでクラブ活動の中の一環にとどまっていた。周囲には、在学中にプロデビューした先輩や後輩もいる。心底羨ましかった。彼らに共通して言えるのは、行動派であるということだった。部活動の学内におけるイベント枠内に収まらず、自分たちでライブハウスを借りて、他府県まで演奏しに行ったりする気概のある人々だった。そんな彼らをしり目に、ぼくのバンド活動はあくまで学内に、いやほとんどは部室で練習する程度の、内向きな動きだった。にもかかわらず、当時のぼくの夢はミュージシャンとしてプロデビューすることなのだった。デモテープなるものが魔法のチケットとして、夢の暮らしを約束してくれていると思い込んでいた。しかし、身もふたもない事実を言うが、ぼくは歌もギターも下手だった。個人練習という点で言うと、誰よりも時間を割いていたかもしれない。しかしよく言う「間違った練習」ばかりしていたのだろう、本番またはリハーサルでは何の効力も発揮しなかった。しかし、内在する才能をいつかどこかの大手事務所が見出してくれるはず! と心で思っていた。というより願っていた。
何かが起こることを祈りながら、日々だけが過ぎ、就職活動をする時期が近づいてくる。この時期に入ってもなお、魔法のチケットたるデモテープを送ったり、バイトや好きなことに時間を使い、挙句の果てにわざと一年留年する決意をした。もう一年学生として過ごしている間に、ミュージシャンとしてデビューが決まるかもしれない、という戯言を周囲に漏らしていた。当然同級生たちは就職し、新社会人としての生活をスタートさせているというのに。
結局何も起こらないまま、五年間の大学生活を終え卒業を迎える。しかし気持ちはずっと変わらぬままで、一応就職できた会社もたった三か月で辞めたのだった。おれの人生は普通のサラリーマンになるためにあるんじゃない。
やっぱり東京へ出た方が良い。そう思った。それまでの人生で一度も東京へ行ったことはなかったのだが、ちょうど高校時代の友人が一足先に東京で暮らし始めていたり、今のようにスマホもない時代だったので、やはり何かするには東京へ行かなければ、と信じていた。東京へ行けば何とかなる、という浅はかなさとも言える。実際、何らかの夢を果たすために都会で出るということは、地の利という点で功を奏するゆえ確かな選択と言えようが、ぼくの場合はただの逃げでしかなかった。ダサい自分がダサいままなのはダサい地元にいるからだ。
東京へ行く、と言っても実際に住処として目星をつけたのは横浜という街だった。名前の響きも良いし、真っすぐ東京という大都会で住むよりなんとなく過ごしやすそうに思えた。それに地方に住むぼくからすると、東京のお隣さん、ぐらいに見え、大した違いは感じられなかった。同じ関東、という程度だった。
ぼくらしい方法というか、後先の考えナシだと思うのだが、この時点で貯金と呼べる財産などほとんどない。大学時代にバイトで稼いだ金はその都度使って消えていた。飲食や彼女と遊ぶのに全部消えた。すべて自分の楽しみのためだけに。大学を出してもらった親のためになぞ使った記憶はない。母の日、父の日、といった記念日にかこつけて親孝行をしたことなど一切ない。何不自由なく暮らさせてもらい、勉強をする機会を与えてもらうことの幸せについて、ぼくは考えたこともなかった。そういう悩みや苦労を、子供に与えなかった両親を今は心から尊敬する。これから語ることは、そんな両親を本気で悲しませた、第一弾の事件と言っていい。ぼくは取り合えず無一文でも屋根のある住まいへ転がり込める、新聞配達の住み込みの仕事に応募することにした。
ミュージシャンになるために関東に住む。
そのことを伝えた時、両親から猛反対を受けたのだが、今でも目に焼き付いているのは母親の放った一言と表情、その時の光景だ。
「あんた…頭おかしなった?」
それは冗談でも、呆れているのでもなく、ほとんど言葉の通り、本気で心配しているようなニュアンスだった。大昔のSF映画にあるような、宇宙人に乗っ取られた者と対峙しているようないぶかしさと、恐怖の混じった顔だった。とにもかくにもぼくは両親の反対をしり目に横浜へと向かった。一度言ったら聞かない頑固な息子だということは、両親は良く分かっており、最終的には見送る以外の選択肢がないようだった。
ぼくがプロミュージシャンになれるレベルの何かを持っているかいないかは別として、一度強引な行動に出てでも、親元を離れて暮らしておかなければばらないような感覚を、本能的に持ったのかもしれない。いずれにせよ、地に足の着いた目的意識とは言い難かった。250ccのバイクで一晩かけて横浜市××区にある新聞屋の寮へ転がり込んだ。
cut6 サツキ
「寮の子たちが荷物運んでくれたんだ」
入所した初日、寮の三階にある一間に案内してくれた店長がぼくの隣でそう言った。
部屋の隅に積み上げられた七、八個の段ボール箱。そのうちの一つの角が十センチ程裂けており、中に詰め込んだエロ本のタイトルがしっかり垣間見えている。
商店街の中にある新聞屋の店舗から、あてがわれたカブを五分走らせると、その住み込み寮はあった。七、八人ほどの男たちに一部屋ずつ与えられていたが、ひと月に二、三人が入れ替わる。寝不足が辛くて辞める者、前借りで首が回らなくなり飛んだ(無断で夜逃げした)者。その穴を埋めるようにして地方から何かを求めてこの寮へ入ってくる新しい者。新聞店は離職率の激しい業界のようだった。
働き始めて分かったことだったが、本当に体がきつかった。朝三時には朝刊配達に出発できるよう目覚め、まかないの朝食の後眠り、十五時に夕刊配達スタート。これが毎日続くのは当然知っていたことだが。
ぼくは、こう高をくくっていた。日が昇るまで働き、夕方まで眠りまた働く。なんだかんだ言っても睡眠時間そのものは確保できるはず。そして日曜は夕刊がないのでここで体力を復活させられる、はず。それくらいの簡単な計算が頭にはあった。が、一口に新聞屋さんと言っても、各店舗の経営者によって業務形態は微妙に違うようだった。ぼくの入ったここでの仕事は、朝夕の配達の他に「拡張」と呼ばれるいわゆる新聞の勧誘業務がある。また、新聞代の集金業務もあり、朝夕の配達の合間、または夜に行われた。
ぼくは一年ほど前に横浜近郊に住み始めていた友人から、タウンワークのようなフリー雑誌をいくつか送ってもらい、この店の面接を前もって受けていた。ネットが普及していない時代でも情報収集は何とかなるものだった。そして募集要項で書かれていた「日曜以外の休日、四日あり」というのは「拡張」つまり新聞の勧誘の成績如何によってようやく支給されるご褒美であり、従業員が黙って受け取れる権利ではなかったのだ。また、日曜日といっても世間一般の日曜とは少し違い、土曜の夜中にたたき起こされ、朝刊配達を終えてから始まるわけで決して穏やかな休日の始まりとは言えない。夕刊業務がないというだけだ。
とにかく、毎日眠くて眠くて仕方がなかった。朝刊配達後、寮で朝食を取り、朝の光をカーテンで遮った部屋で泥のように眠りにつく。午前八時前に、そのようにしてせんべい布団にくるまる。しかし飯の後に欠かさずやる二、三本のタバコと缶コーヒーの刺激のせいで深くは眠れない。頭にあるのは「夕刊配達前の、十四時には起きねば」ということ。杭が打たれたようにそのことが、冴えない頭の中に常に居座り、リラックスする間もない。
午後二時半には寮の一階にある作業場に夕刊の荷が到着し、それをそれぞれの従業員が担当地域用に部数を仕分け、配達の準備をする。
配達が終わるとそこから拡張と、集金のため地域をまわる。十九時くらいをめどに新聞店へ顔を出し、その日の集金や拡張の報告などをしに皆が集まる。配達以外の時間をゆっくり眠れるわけではないのだった。
集金に関しては、前任者の時代から滞納している客や、運悪く訪問して会えなかった相手もいたりして、こちらの段取り通りには進まない。われわれの新聞店は、良くも悪くも泥臭い地域にあった。都会でも田舎でもない、良く言えば人情味のある下町、悪く言えば柄の悪い地域。金銭を介して関わるには少々面倒な客層の多い場所だった。
日々積み重なる睡眠不足もあって、新聞代を滞納している客になかなか訪問しても会えない苛立ち、良く知らない土地でよくわからないまま狭い地域だけを、毎朝毎晩ウロウロしていることに精神がすり減っていく。ボサボサになったままの髪や、数日おきに入る風呂の習慣など、それまでの几帳面な生活スタイルもどこか遠い記憶のようになり始めると、コンビニなどで若い女と出くわす時には、自分の容姿が笑われているような感覚になり何やら引け目を覚え、自然に目を逸らすようになっていった。
拡張と呼ばれる営業活動に関しては、ぼくは一切やらなかった。既存の客から継続契約は取るが、いわゆる飛び込み、新規の契約を取るという営業には手を出さなかった。
知らない人の家のインターホンを押し、
「今取ってる新聞をやめて、うちで契約してください」
と言って成績を獲得するという仕事。そんなことできるわけがない。人見知りが強く、女の子もまともに口説けない、実に内向的な男だった。特にノルマがあるわけでもないから基本給は配達だけでもらえる。わずか十二万程度の基本給から寮生活での食費など諸々引かれて八万円程度。ぼくはそのささやかな金額に甘んじて過ごした。
しかし、契約件数を上げ、給料を多く受け取り、頑張ったご褒美の公休日に体を休めて仕事以外のこといに時間を費やす、また頑張る、というこの一連の動きを作り出さない限り、ここに来た本来の目的など果たせるわけがない。そんな明白な事実でさえ薄れさせるほど、心身ともにすり減っていった。とにかく一日二回の新聞配達を終えて食べる眠る、ということだけに日々が費やされた。
また、この寮での暮らしはその日々に拍車をかけるようにして、居心地の良いものだった。ぼくが転がり込んですぐに入って来た、七つ年上のシノブという男とウマが合い、仲良くなった。ほどなくして、このシノブから聞かされて知ったことだったが、従業員を収容するための寮を所有する新聞店は多く、またその従業員の多くは各店舗を転々としながら生きている者が多い。皆それぞれに事情を抱えて、その店を、その土地を追われるようにして別の町へ流れる、といった男たちのローテーションでこの業界は成り立っているというのだ。どの男たちも、もともと借金を抱えて知り合いや何かの組織から逃げている者が多かった。そしてその一部は、店から給料の前借を繰り返し、挙句の果てに飛んでいくといったケースもままあるそうだった。実際、元エリートサラリーマンだったある四十代男性は、ぼくがここで暮らしている間に飛んだ。
「ビールいるかい?」
そう言っていつものようにぼくを気にかけ、声をかけてくれた夜のあくる朝、突然消えていたのだ。
店の方も、この甘い甘い前借制度のおかげで従業員を仕事に縛り付けることができるわけだが、加減を間違うと「飛ぶ」行為に走らせる。そしてその飛んだ者は、またどこか離れた地で同じ暮らしにありつくことできるほど、業界自体が人手を欲してもおり、恐らく新たな受け入れ先の新聞店もその者の過去についておおよそ見当がついている節がありつつも知らん顔を決め込んでいるのだ。どうあれ、ぼくもこの環境で暮らすうちに、前借制度によって身動きが取れなくなり、慢性的に続く睡眠不足で体力は衰え、何か新しいことを始めたり立ち向かっていこうという気力はすっかり萎えていったのだった。
これはもう二十年近く昔の話である。今現在のこの「新聞屋さんの寮生活者」や業界がどんなものなのか一切知らないし、ぼくが当時関わった、限られた面々の中でだけの情報だったり、構成された環境だったのかもしれない。その上で言わせてもらうと、上質な人間が選ぶ環境とは言えなかった。とても乱暴な表現をすると、底辺の者の集まりだった。忘れてはいけないのは紛れもなく、そう言うぼくがその一員だったことだ。
話を戻すと、このシノブという男は愛知県出身で、いろいろな土地へ渡っては新聞店の寮住まいを続けてきた男だった。彼が前借による負債を抱えたまま「飛んだ」りしながら職場を変えていく「一部の者たち」の一人だったかどうかは知らないが、自分自身に甘い人間であることは確かだった。背は低く小太りで、愛嬌のある顔をしており、当時三十七歳には見えない容姿だった。二十代半ばで通用するようなルックス、バカ話が好き、漫画や映画も好き、そういう男だったので、年上の者に対して苦手意識のあったぼくでもすぐに打ち解けた。何よりも先ほど書いた通り、自分に甘い人間であり、つまりそれは他人に対しても甘く、居心地がよかった。他の従業員の愚痴や現実逃避の笑い話、そういった時間をよく二人で過ごすようになった。
また、日曜だけ寮の夕飯は休みだったのでちょっと遠くにある有名なラーメン屋に行ったり、マメなシノブの計らいで、カセットコンロを使ってカレーを作ってもらったりした。ためらいもなく包丁を手に、料理を作っていく様子に感心したものだった。
この新聞店の寮生活という環境は、とても奇妙なもので、過酷でありながら、従業員に怠惰な性質を助長させる。睡眠と飢え、金で人間はやすやすと支配できるものである、ということがよく分かる仕組みを持っていた。上に立つ者がどこまで理解してその方針を駆使しているのかは分からないが、国レベルでこの仕組みを行使すれば、いともたやすく国民を手玉に取れるだろう。実際、この地球のどこかにはそういうふうにしてうまく国民を支配している国がいくつもある。広い場所へ出て、違う角度から景色を見ないと永遠に心は鎖につながれたままとなる。
しかしこの過酷な環境こそが、目的に向ってまい進するのに適している人種もいた。何もぼくやシノブのように、怠惰になり下がるような者たちばかりではない。
何人かのボクサーを目指す若者たちと出会った。この地域には有名なボクシングジムがあり、全国各地からそのジムの洗礼を浴びるべく、十代・二十代の若者が移住してきていた。そんな彼らの多くは、ジムの口利きで紹介された新聞店の寮に住み、配達の仕事を収入にして練習に臨んだ。彼らは拡張という業務に従事することはなく、店の方もあらゆる面で理解があった。それでも金額の差はあれ、前借をしないと生活は苦しいようだった。しかしその苦しさこそが彼らのバネになり、拳に力を与えた。ぼくの入る前からここにいた十八歳のKは見事プロになれた。本当に我がことのように嬉しかった。生まれて初めて、生でボクシングというものを見たが、こんなに興奮するものだとは知らなかった。
ぼくが入所して間もなく、Kとは別にもう一人、ボクサー志望の若者が入って来た。彼はKよりも二つ三つ年上、大阪出身ということもあって、兵庫から出てきたぼくも関西弁の彼に気を許した。シノブと三人でよく飯を食べた。仲良くしていたが残念なことに、彼にはボクシングの才能があるとは到底思えなかった。プロライセンスを呆気なく獲得したKの方は、十代ながら独特の獰猛さがにじみ出ており、小柄でどちらかと言えば可愛いらしい顔であったが、そのことがより何かしらの威圧感を与えた。大阪から出てきたYも一見、大人しそうなひ弱な容姿であったが、そこにある種ギャップのようなものがあるわけではなく、見た通りの心優しいやつだった。
お笑い芸人を志す女の子もいた。今ではきっと東の人たちも知っているであろう、大手のお笑いの養成所に通っていた。彼女は男ばかりの寮の一室で、ぼくらと寝食を共にしながら養成所へ通っていた。初めて彼女に会った時ぼくは驚いた。百六十センチあるかないかの身長に、きれいな丸坊主頭。少年かと思ったがその声は明らかに女の子のそれで、今でもよく覚えているが、ぼくが入所した初日に、
「関西から来たんですよね⁉」
と興味津々で尋ねてきた。九十年代がもうすぐ終わりを告げるこの頃、有名漫才師Dとその仲間の関西芸人の洗礼を浴びずしてお笑いを目指す者はいなかったであろう。ぼくだって、かつてはそんな夢を抱いた一人だ。沖縄から単身やって来たというこのサツキという女の子は、お笑い=関西というイメージをテレビから受け取り、養成所以外で見る生の関西人であるぼくにとても興味を持ったようだった。
サツキは、人と話すとき相手の目を見なかった。いつも相手の胸のあたりに視線がある。明朗な声とは反して言葉はたどたどしく自信なさ気で、相手の反応を待たずにテンポよく話す子だった。十九だったが色気と言うものが全くなく、そのおかげでこの男だらけの寮では緊張感を生むことなく、平和を保てていた。程なくして彼女は養成所を辞めることになるが、そのまま続けていれば良い線まで行っていたのでは、とぼくは今でも思う。実際に彼女がどんな芸をやっていたのかはぼくは知らない。いつも落ち着きなく奇妙な動きをしながら、熱っぽく何かを話している姿は、一般的な女の子のそれとは違い、人目を引いた。ぼくはよくその様子で吹き出してしまうのだが、それは芸人として彼女の本意ではなかっただろう。いずれにしても個性の強い子だった。
その彼女が養成所を辞めて普通の結婚を選んだのは、出会ってから一年も経たない間のことだったが、その原因の一つに、ぼくの存在はあったと思う。
サツキについて語るとき、その人物像は当時の従業員皆、一致した意見だった。
「女として見れない」と。
その人が醸し出すオーラ云々もあるのだろうけれど、くりくりとした丸坊主頭はやはり、男の子のようだった。
この寮の古株(と言っても勤務歴二、三年)であるハラダという男がいた。当時では珍しいプログラミングの仕事を長くやってきた男で、超多忙で過酷なその労働環境から逃げ出し、新聞店に住み着いた。高学歴で出世街道を走って来たようだったが、どこかで線が切れてしまったのだろう、燃え尽き症候群を味わい、何かを諦めてしまったのか、暴飲暴食の結果よく肥えていた。チャーミングな太り方とは言えず、他人を見下した態度と拡張の成績がいつも優秀、本質的には仕事が出来るという性質から妬みの対象でもあり、皆からあまり好かれていなかった。まだ二十代後半だったが、年長者も年下もハラダのいないところでは彼のことを「あのブタ」と呼んでいた。
そんなハラダに、サツキはなついており、仕事を教えてもらうという名目で一緒に拡張に出ていくことも度々あった。ハラダは拡張で獲得した契約を彼女に与えてやることもしていたが、それは彼女を一人の女として見た上でその対価を求めるといった意味合いはなく、本当に出来の悪い子分を服従させるためだけの、ただの力の誇示だった。もしサツキを女として見ていたら、これを良い事に体を要求していただろう。そういう下劣な男だった。
そのハラダが、髪を伸ばしだしたサツキを見て言った。
「最近あいつ、可愛いよなあ」
もちろんそれは異性として見ての発言だった。いつしかサツキが髪を長くするようになったのには理由がある。
サツキはぼくのことが好きだったのだ。ことあるごとに、例えば廊下ですれ違う時などサツキはぼくに話しかけてきた。そのほとんどは何の計画性もないような他愛もない話題だったが、ぼくはよくイライラさせられた。恐らく彼女なりにとても勇気を振り絞ってのことだったろう。
「今度の日曜、ゴハン行きませんか」
というような誘いもぼくはいつも無下に断った。ぼくは彼女を嫌悪していた。正確に言うと、ぼくはぼく自身に嫌悪し、そのぼくに好意を寄せる彼女のことを嫌悪していたのだと思う。横浜市にやってきて新聞店の仕事をし、暮らしをスタートさせたものの、目標であるミュージシャンになるための動きは一切していなかった。四方の部屋からいびきが聞こえるような寮の部屋で歌やギターの演奏はできないし、デモテープは作れない、ライブハウスに出演する時間がとれない、バンドを組むにしても出会う場へ行けない…などなどの理由をいくつも作り、自ら歯止めをかけていた。頭のどこかでそれは自分の仕業であると自覚していて、そんな自分をぼくは嫌っていた。
そしてサツキは髪を伸ばし始めた。沖縄出身の彼女の、独特かつエキゾチックな顔立ちが浮き上がり、それでようやく実は美形であることが皆に分かった。まるでちゃんとした額に入れることで価値の上がった絵画のように。
ぼくは、他の者を交えてサツキとカラオケや食事に行ったりしたが二人だけで会うことはなかった。しかし、もともとあまり酒に強くないぼくがやや酔いがまわった夜に、二軒目三軒目とハシゴするうちに、サツキと二人だけになり、通りがかったホテルで彼女と寝た。恋愛でも欲望でもなく、嫌悪するぼくの自傷行為にそれは近かったと思う。
ぼくはその夜からサツキを避けるように過ごし、彼女はとても傷ついているようだったが、その彼女の感情はすぐにぼくへの憎しみに変わった。ぼくを見る目つきでそれが分かった。あの、人と目を合わさずに話す女が、ぼくにだけは全く目をそらさず鋭い眼差しで見るようになった。そこにあるのは明らかに憎悪だった。
それから彼女は堰を切ったように、何人かの男と寝るようになった。残念ながらそこにハラダは含まれていないが、寮に住むオッサンや外部の男友達、または居酒屋で出会った知らない男といった面々だった。行きつけの定食屋のおばちゃんがぼくにこっそり教えてくれたくらいだから、サツキ自身がいろんなところで言いふらしているようだった。きっとぼくの耳にも入ることを前提に。段々と髪型や服装も派手になり、お笑いの養成所も知らない間に辞めていた。
やがてサツキは、同じ経営者が持つ、少し離れた地域の新聞店へ移動になり、二十ほど年上の、そこの店長と結婚することになったと後になって聞いた。その話を風の噂で聞いた時、ぼくはもう店を辞めていたが、結婚したこと自体は心から祝福した。
サツキの他に二人、二十代の女の従業員がいた。どちらもぼくの後に入って来たが、まだサツキが丸坊主の頃だった。二人とも地方から出てきており、ちょうど寮は埋まっていたので別のアパートを借り上げてもらって入居した。
住まいは寮とは別だったが、朝刊の時間になると寮の一階に来て彼女らも配達の準備に参加する。
その初日だが、明らかに空気がおかしかった。いつもは誰彼気取らず軽口が飛び交う、威勢の良い支度時間だったが、男たちは皆、女二人を完全に意識するあまり、口がきけなくなっていた。
二人とも決して美人ではない。丸坊主のサツキと比べて違うのは髪が長いことくらいで、顔だけで言うと、サツキが最も美形だった。(それに関してはのちにサツキが髪を伸ばすことで判明するのだが。)とにかくこの男ばかりの集団は、その狭い環境下ゆえ感覚がマヒしていると思った。女性への免疫が完全に失われていた。ぼく自身もふくめていい年をした男たちが、その辺にいそうな普通の女の子を前にして、童貞の学生みたいにもじもじしている。
いろいろな意味でこのままここにいてはまずいと思い始めた。
二人の女のうち一人は、歌手を目指していた。家を出て若い女が一人、新聞店で異様な男たちの視線を感じながら目指す夢は、さぞかし強い意思の発露であろうと思い、興味を持った。ぼくはやっと仲間が出来たと思った。ようやくおれも動き出すときが来たかもしれない。彼女はボイストレーニングに通っている、と言うのでぜひその歌声を聴いてみたい、と申し出た。彼女の部屋で音源を聞くことになった。
ぼくは構想した。まずはこの子をボーカルに、おれがギターを弾くユニットからスタートさせるのもいいかもしれない。ぼくは期待に胸を膨らませて彼女がカセットテープを再生させるのを待った。彼女と一緒にいる部屋で固唾を飲んだ。
B’zの「あいかわらずなボクら」という曲はイントロもなしに、いきなり歌から始まる。よく聴き慣れている歌だった。それだけに一層、衝撃的な歌声だった。一秒以内にぼくは、
「正気か…」
と心の中で思った。それはボイストレーニングをしてどうこうなるレベルではなかった。カラオケなどで、笑うことのできない「中途半端なうまさ」レベルを遥かに下回る「笑えるレベル」の歌唱力だった。言葉を覚えたての赤ちゃんが意味も分からずしゃべっているような、何の感情も見えない歌だった。何よりもそのテープを聞かせてくれる潔さに驚き、この歌の終わりに何と感想を言えばいいのだろうと、途中からそのことばり考えていた。
うら若き二十歳の女と二人きり。もし彼女がぼくの、どストライクのタイプで、そもそもそういうつもりでこの部屋を訪れるやましさを抱えていたとしても、それを木っ端みじんに吹き飛ばすほどの破壊力を持つ歌声だった。
もう一人の女は店の経理を担当する男と付き合うようになったが、彼は他に恋人がおり、そのさわやかで誠実そうな見た目とは似つかず、火遊びの相手としてその女を選んだに過ぎなかった。確か女優を目指していた。
どちらの女も感じの良い人間だった。しかし二人とも、自身の心のさざ波を穏やかに保つような重要な何かが欠落していた。何らかの強い誘惑の前では、大切にしている何かをあっさり引き渡しそうな脆さがあった。それはぼく自身も同じことで、これ以上長くこの場所にいると、その違和感を察知する感覚すら消えてしまいそうだった。
ぼくとシノブは、集金や拡張業務の時間にまぎれて自分たち受け持つ地域の人々と積極的に関わるようにした。安く借りれるアパートはないか、すぐにでも雇ってくれるような実入りの良い仕事はないか、などといった情報収集のためだった。拡張に関しては全く動かぬと決め込み、その内気ぶりを発揮していたが、この脱出に向けての渉外活動は気後れすることなく行えた。ひと月もしないうちにぼくらは、二人で住める借家と仕事を世話してくれる、気の良い夫婦と知り合った。やっとまともな時間に眠ることができる。ぼくの気持ちはそのことでいっぱいだった。
cut7 シノブ
夜に眠り、朝に目覚める、という奪われていた日常の幸せをしばらくは満喫した。
ぼくとシノブは慌ただしく声をかけた中年夫婦から、お互い素性もよく分からぬまま呆気なく新しい仕事と住まいを手に入れた。しかし、手軽に手に入れたものは所詮手軽さゆえの理由はある。新しい住まいと仕事は所詮、「あの環境」よりは少しはマシという程度のことだとすぐに分かった。
新聞屋の寮と同じ区内にある借家は、二階建てで、二階に大家さん夫婦、一階に二世帯が住める古い家だった。ぼくらはこの一階に住むことになった。二つの入口を分かち合う同じ一階の住人は、小さい子供のいる若い夫婦で、ぼくらは全く関わることはなかったが、彼らは時折友人を招いては窓を開けて、夜遅くまで騒いでおり、よく大家さんが二階から顔を出して注意するほどだった。天下の大家さんが直接注意するのだが、それでもしばらくするとちょくちょくその手の騒ぎが起こった。大声で笑ったり、テレビの音量が大きいといったレベルのことだけれど、ぼくらにとっても少々ストレスであり、大家さん夫婦の老齢を思うと気の毒で、かといってわざわざぼくらみたいな若いのが口出しして余計揉めるのもよくないと閉口していた。彼らとは週末の朝、顔を合わせるか合わせないか程度の関りだったが、一度二度の注意で収まらない素行に、とてもふてぶてしい連中だと思った。やや柄の悪そうな夫婦だった。
大家さん夫婦はどちらもとても気の良い方々で、ぼくとシノブの男二人の共同生活に気味悪がることもなく、むしろ色々気にかけてくれた。
「関西から来たの? マザー牧場とか知ってる? バイクで行くにはとても気持ちいいところだよ」
大人としての世間話の切り出し方さえわからないぼくにも、顔を合わせると何かと言葉をかけてくれた。大抵は、もう一組の住人の愚痴だったが。
目と鼻の先にある不動産屋さんに家賃を支払うことになっていたが、ここの社長さんもとても良い人で、期日に支払いが出来ない時は嫌な顔一つせず待ってくれたりもした。関東という言葉でひとくくりにしていた横浜にもこういう下町があり、どこか大阪にありそうな雰囲気を持つ地域だった。しかしその暖かさは居心地が良かったものの、夢を追いかける人間が住むのに相応しい町とは言えなかった。牙が抜けてしまうというものだ。
始まった仕事だが、その日の朝にならないと、あるかないかもわからないような現場仕事だった。電気工事の仕事だ。シノブとともに「新聞寮脱出作戦」に力を貸してくれた夫婦が切り盛りしており、この住まいを紹介してくれた不動産屋さんとも渡りをつけてくれた。よく素性を知らない、新聞配達の兄ちゃん二人によくここまでしてくれたと思う。心から感謝した。ただ、さっきも言った通り、朝目覚めるまで、その日が出勤日なのか休日なのかがわからず、元来怠け者であるぼくたち二人にとってそれは辟易することだった。
ずっと後になって姫路へ戻ってからも、こういった現場仕事でのあるある(?)に遭遇したが、今もってなぜそういうことが起こるのかよく分からない。当日の朝を迎えてみないことには親方にも仕事が振り分けられるかわからないという状況が。とにかく、使われる身としては待機していないといけないわけだから、何か予定を入れることもできない。
「明日は仕事あるんだろうか」
ぼくとシノブは夜遅くこの話題を肴にダラダラとした時間を過ごした。二人とも下戸だったので、コーラとポテチをかじりながらのささやかな夜会のつもりが、いつしか深夜になり、「明日もたぶん仕事ないだろう」という何の根拠もない祈りを込めて、ばかばかしい話で盛り上がるのだった。そのまま夜更かしして実際に「今日は休み」という連絡が入ると、「やっぱりな」と顔を合わせてもう一度寝る。二人は生来の怠け者だった。もしどちらか一方がしっかり者だったらそれに大人しく倣う、といった流され方は出来る程度のやわな精神の持ち主たちであった。ぼくらは段々と翌日の仕事の有無を読めるようになった。と言ってもほとんどは「休み」を期待していたのだが。
ある夜、明日もどうせ仕事がないだろうと高をくくって夜更かして、いつもより余計に夜会が盛り上がった。ふだんは飲まないぼくがビール片手に饒舌になった。しかし翌朝、見事に仕事があると連絡が入った。
「シノブさん、どうする?」
「う~ん、どうしようなあ」
ぼくは横浜市内に出かけようと、シノブは一日ゲームをして過ごそうと、二人して休む気満々だった。怠け者で頑固。ぼくらはよく似ていた。だから答えはちゃんと出ていた。携帯越しで親方に「休みます」という旨を告げるも、向こうもすぐには引き下がらなかった。もちろん従業員は他にも四名いたが、皆別の現場へ向かうのか体は空いておらず、どうしてもぼくらに出てくれとのことだった。
親方は家までやって来た。それでもぼくらはランニングに短パンという恰好で半分布団に入ったまま、玄関にやって来た親方と会話していた。完全に動く気がなかった。世話になった人に向ける態度ではない。良くも悪くも、ぼくとシノブは波長が合ってしまったという他ない。
その日は渋々帰っていった親方に夕方電話をかけ、結局ぼくらは辞める意向を告げて詫びた。ぼくはすぐにピザの配達のバイトを始めた。シノブにも誘ったが、十代・二十代ばかり職場だったので彼は難色を示し、工場などの面接を何件か受けては「給料が安い」「仕事内容が気に入らない」と、受かってもそれらを蹴るという日々を繰り返した。
ピザの配達の仕事は新聞配達で培われたバイク操作も役に立つし、シノブにとっても恰好の仕事であると思ったが、狭く深い人間関係を好む彼が敬遠するに値する、「華やかな若者たちがワイワイとサークル活動をするようなノリ」の職場ではあった。他人と関わらず黙々と遂行できる、休みの多い仕事を探していたが、ひと月経ってもシノブの、貯金を切り崩して生活する日々は変わらなかった。ぼくは彼と家賃を折半していたので、とても不安になった。
また彼は、小太りのがっしりした体形に似合わず体が弱く、喘息を患っていた。新聞店にいる頃はあまり発作も出ていなかったようで気づかなかったが、ぼくがピザ屋のバイトから帰ると、ちょくちょく布団にくるまって寝ていることがあった。ぼくの気配に気づきごそごそと起き出してきて、ちょっと調子が良さそうなのを確かめてから、
「仕事、見つかった?」
と尋ねると、ついさっき消失したはずの疲労をもう一度表情に織り交ぜて首を横に振り、
「いや、また喘息の発作が出て寝ていた」
と答える。そこから彼は相手に息継ぎの間も与えないほど、自分の発作の状態や苦しさを饒舌に話し出す。浮気を咎められた男がそのうしろめたさを隠すためにペラペラとしゃべり続けるかのように。大抵は簡単な夕食の支度をしてくれていたり、洗濯物なども終えていてくれる。それはとても有難いことだったが、朝から夜までピザ屋で働き、帰宅すると必ずこの男がいるという現状にウンザリしてきた。二部屋あるが、すりガラスの引き戸で隔てられただけの古い家屋である。文字通り寝ても覚めても相手がいるわけだ。これが、ミュージシャンやお笑いコンビといった同じ夢を目指す者同士であればまだ耐えられるだろう。むしろ顔を合わせて話すことが生活の主軸になるのだから。しかし二十代の、夢を追うために上京したぼくと、その日一日をゲームや漫画で謳歌する三十七歳の男とでは、話題も噛み合わなくなってくる。おまけに寂しがり屋のシノブは、一人の世界に入ろうとするぼくにひっきりなしに話をしてきた。まあぼくが帰宅するまで一人で過ごしているのだから、唯一の話し相手を逃すまい、という心理が働くのも無理はない。まるでそれは、一日を子育てに費やした主婦が、旦那の帰宅を皮切りに堰を切ったように、その日あった出来事を延々話し出す状況に似ている。しかし主婦ならばいろいろ変化のある日常の話題も言えるだろうが、シノブの口から出てくるのは大抵は、自分の喘息の発作の辛さと、転々として過ごした関東一円の新聞店での愚痴の話だった。また、女性にはあまりピンと来ないかもしれないが、恋人もいない健全な男子には部屋で一人で過ごせる時間というものが必要である。本やビデオを頼りに女性の姿への恋慕を吐き出すための時間だ。三十分でもいい。帰宅してシノブがいない時間が欲しかった。この家にいるかぎりぼくには一人で息を抜く暇もなくたえずこの男がいて、それぞれ部屋で過ごしていたとしても、テレビを見てゲラゲラ笑う声か、肥満体質特有の激しいいびきが聞こえてくる。
クーラーが一台しかないので、夏場は互いの部屋の仕切り戸を閉めずに過ごす。一人で静かに映画のビデオを見てると背後に気配を感じ振り向くと、シノブが身体を横たえて隣の部屋からこちらのテレビ画面に見入っていたりする。そして「やっと気づいてくれたか」とばかりにニンマリとした表情を浮かべる。
「やっぱ面白いよなあこの映画、見入ってしまうよなあ」
とぼくの軽い嫌悪感には気づかない様子で、映画の感想を嘆息交じりに話す。これまでの何でもない時だったら平気だったが、徐々にぼくのストレスは限界に近づいていた。
一度、イライラしたぼくは嫌味で、戸を閉めずにアダルトDVDを、普通のテレビ番組を見るレベルの音量でかけて見た。もちろん一人でそういう行為に出るつもりはなく、シノブに向けたただの当てこすりだった。何かしらのメッセージのつもりだった。さすがに映画鑑賞の時のようにそっと参加することはできなかったようで、しばらくすると喘ぎ声に紛れて笑い声が聞こえてきた。じぃっと耐え忍ぶことができずに彼は笑いながら部屋を覗き、
「何を見てんねん!」
とニセ関西弁でツッコんできた。このアダルトDVD鑑賞自体、ぼくの意表を突いたギャグだと解釈したようだった。先にも述べたように、ぼくは人を笑かす時、意表を突く奇襲戦法をよく用いたのでその一つだと思った、もしくは思い込もうとしたのか。さすがにぼくもこういう形で無言のプレッシャーをかけるのは良くないなと瞬時に反省し、あたかも最初から笑わせるつもりだったかのように振舞う。
こんなふうにして二カ月ほど続いたが、一向に仕事を見つける様子もないシノブだった。ある日、帰宅前にぼくは最寄り駅付近の本やソフト類の中古ショップで何を探すということもなく物色していると、中古DVDの棚に目が止まった。ちょくちょく寄る店だったから、在庫の変化に気づいたのだけれど、そこにはジャッキー・チェンの「ラッシュアワー」や松田優作の「野獣死すべし」などのタイトルが連続でこの日突如、陳列されていたのだが、これらはシノブの大事にしているコレクションの連続性と同じだった。
「あ、こなだの家賃、DVD売って作ったんやな」
とぼくは推測した。清潔好きで収集家(大多数の男特有の几帳面さである)でもある彼だから、貴重なコレクションを手放したことに対していじらしい気持ちにもなったが、そこまでしないと金を作れない男と同居していることに戦慄した。家賃は、一人で払うには結構な金額だった。
帰宅してすぐぼくはシノブの部屋のDVDの並ぶ棚に目をやり、さっきの店で並んでいたタイトルがそっくりそのまま、彼のコレクションから消えているのを確認し、
「DVD売ってしまったんやな」
と軽い口調で切り出した。すると彼は、
「いや、売ってないよ」
とこちらを見て答えたが、明らかに嘘だと分かった。これだけ濃密に寝食を共にしていると、醸し出すその波長からいろんな情報がアカシックレコードばりに流れ込んでくる。そこにあったタイトルのいくつかが、かなりキレイな状態で店に並んでいた、と伝えると彼は、
「いや、おれは売ってないよ。友達に貸した」
という子供じみた嘘で返してきた。彼にこの地で友達と言えるのは恐らく今はぼくだけだったし、到底、友達なる者と会うために部屋から一歩でも出ているとは思えなかった。このどうでもいい嘘には心底うんざりした。そもそもこんな嘘をついたところで誰が得をするのか。
程なくしてぼくが心底恐れていた日が訪れた。シノブがこの家を出るという。つまり六万八千円の家賃を一人で支払うことになるのだ。それから、ぼくは音をあげて姫路へ帰ることになる一年ちょっとの期間をここで暮らすのだが、今思えばなぜさっさと安い部屋を探さなかったのだろうか。確かに手持ちの引っ越し費用がなかったと言えばなかったが、恐らく何とかできただろう。長いこと生きていると、「後悔」ではないが当時の自分の行動を「謎」として捉えるに値するものがいくつか残る。今となっては理解不能な何らかの意地のようなものだったのかもしれない。
シノブは部屋を出るにあたって、いくつものあやふやな理由を告げた。母親の体調がどう、地元のツレの様子がどう、とかそういう類のことだった。高額な家賃を自らの都合で急にぼく一人に負わせるうしろめたさがあったからだと思うが、詫びの言葉はひとこともなかった。どんな些細なことであれ、彼が人に謝るところをぼくは見たことがない。
何年か後、姫路で営業マンとしてバリバリと仕事をしてノリに乗っている時期に、一度シノブと再会した。関西に出てくる用事があるからと姫路まで寄ってくれたのだ。あの家を出た後、案の定それまで彼がそうして生きてきたのと同じく、各地の新聞店の寮を転々として暮らしているようだった。この再会ですぐ分かったことと言えば、すっかりお互いの感覚や会話のリズムにずれが生じていることで、何を話したか覚えていないがそれは楽しい時間とは言い難いものだった。
彼自身は何も変わっていなかったかもしれないが、ぼくはまだその頃、急に家を出ると言って家賃全額を押し付けて逃げたことを根に持っており、その後の経済的な苦しさの復讐を、彼に「今おれは高収入で、あの頃ののんびり生きていたおれとは違う」という事実を見せつけることで果たしたかったのかもしれない。ぼくは態度も会話も、わざと向き合わないようにして、やや見下した調子を保っていた。本当にすまないことをしたと今では思う。
更に時を経て、ぼくがアーティストになってから、ぼくのブログを探し出したシノブは読者になってくれた。シノブは得意だったイラストを投稿するのにちょくちょくそのサイトを使っていたので、ぼくも彼の近況を覗いていた。絵のタッチを見ると「ああ、シノブの描いた絵だ」とよく分かる。それは純然たる懐かしさでもなく、どこかホッとする感情でもなく、ただ客観的に感じたことだった。
シノブはぼくのブログに時々コメントをくれたりしたが、ほとんど無視した。お互いに連絡先は知らず、このブログサイトだけが交信できるツールだった。
それから三、四年くらい経っただろうか。彼からサイトのメッセージでこんな文章が届いた。導入の挨拶もなく唐突にこう書かれていた。
「先々月、母親が亡くなりました。先月は飼っていた猫が死にました。もうぼくには何もありません。この世界に未練はありません。さようなら」
これを読んだぼくの脈拍は、一ミリも影響を受けず穏やかに波打っていた。ぼくはこの辞世の句(らしき文)が本気であれ、書かれていることの事実性よりも、かつての友達にこのような言葉を一方的に送り付ける傲慢さの方に気を取られたからだ。シノブのブログでイラストを見る時に感じるのと同じ、「相変わらずシノブらしいな」と感じただけだった。厳しい言い方をするとシノブの送ったメッセージは、とても悪質なやり口による、愛情の強奪だった。
数週間後、シノブのブログは何事もなかったように更新されていた。
cut8 恐らく、このままじっとしているとキスされるだろう
シノブが去った後、家賃をまるまる一人で捻出しなければいけなくなり、ぼくはピザ屋でのシフトを増やしてもらった。そもそもの夢であるミュージシャンに向けての動きはとん挫したままだった。時々思い出したように近所の公園までギターを持って行っては歌ったり、作曲らしきことをやってはいた。しかしそこには何の終着点も見当たらず、ただ何かに対する焦りを鎮めようとしているだけのその場しのぎの行為だった。
ピザ屋は大学生や二、三十代のフリーターの男女の集まりで、サークル活動のような溌溂さと、一歩先に見え隠れする性的な危うさも含んでいて、とても楽しかった。バイクにまたがっての配達がメインだったが、時々はピザの作り方も教わり、店内の調理をすることもあったりと、そういう多岐に渡る業務のおかげで飽きのこない仕事でもあった。まずは稼がねばならなかったが、さすがに新聞店の時のように生活の軸を持っていかれないように気を張った。
ぼくが考えたのは、一人で何とかしようとするのはやめようということだった。バンドを組もう。曲を作ったり詩を書いたりすることは好きで、これは放っておいても一人で出来る作業だったがしかし、外へ向けて動くとなると、ぼくは性格上怖気づき体が鈍くなってしまう。SNSの発達した今の若者たちはどのように動くのか想像はつくが、当時のぼくらがバンドを組むにあたって取る最初の手立ては、それとは全く違い当然アナログだった。
流行りの音楽雑誌がいくつもあった。「バンドやろうぜ」「ギターマガジン」「ベースマガジン」「ドラムマガジン」…それはそれはもう枚挙に暇のないほどに溢れ、十代二十代の音楽好きたちを熱狂させていた。そしてどの雑誌にも必ずあったのが「バンドメンバー募集」のコーナーだった。いわゆる掲示板というもので、例えば応募者がギタリストであれば、それ以外のパートを募る記事を掲載してもらうのだ。
「当方ギタリスト。パンクロック好む。ベース、ドラム、ギターボーカル求む。ヤンキー、金髪×」
といった具合に。ライブハウスに行ったことのある人なら分かると思うが、楽器店などの壁にもこの手の募集を記載したチラシが貼られていて、多くはその紙の下の部分がたこ足みたく短冊状に切り分けられ、連絡先・依頼者の名前がそれぞれに同じく書いてあり、誰でも切り取って持ち帰りできるようにしてあった。いわば「アナログのスレッド」という本末転倒な表現で伝わるかと思うが、あまたの音楽雑誌にもこのような仕組みが盛んに取り入れられ、バンドキッズの交流のきっかけとなった。
今では考えられないことであるが、驚くことにこれら全国区の雑誌に、依頼者の名前と電話番号はおろか、住所も記載されるのだ。バンドを組むとなれば当然お互いに住んでいる地域のすり合わせは必要となるから、自然といえば自然なことだ。かつて高額納税者の住所が誰彼構わず冊子に掲載されていた時代もあったり、常に社会の常識は変わっていくものだ。いずれにせよ、当時のぼくらは何も考えずこの仕組みに触れていたわけだ。
そしてぼくは手に入れた音楽雑誌の最新号から、ボーカリストを募集している告知をピックアップしていった。そして、川崎に住むギタリストの男性が、ギター以外の全ての楽器パートを募っているのを見つけた。もちろんボーカルも募集している。彼の好みはミッシェル・ガン・エレファント、パンクその他であると記載されていた。それはぼくの大好きなバンドで、すべてがバッチリかみ合う条件だった。ぼくはどんなジャンルの音楽をやるにしても、ギターを持って歌いたかったのでこの意見は通そうと、興奮した頭で決意した。
ナカシマは三十代半ばの小柄な男で、薄い頭髪を大きなバンダナで覆っていた。電話で連絡を入れると、ボーカリストの応募はまだなく、他の楽器パートの目星がついているとのことだった。まずはミッシェル(略称とする)の「GT400」という曲を合わせようということになった。とんとん拍子に日程とスタジオが決まり、ぼくも歌詞とコード進行を覚えて、エレキギターを持参した。
いよいよスタートが切れる。ぼくの胸は高鳴った。横浜市に単身移り住み、八カ月ちょっと。金が貯まるわけでもなくただただ働いては寝るだけの日々だった。
ベースとドラムで応募してきた二人は互いに友人同士で、ぼくらは東京にあるスタジオを借りて練習することになった。二時間というレンタル時間、ぼくらは延々「GT400」という曲だけを合わせた。ノリのいいアップテンポの硬質なロックチューンの多いミッシェルの中でもこの曲は、ミディアムかつ構成も単純な作品だ。演奏時間もそう長くない。バンドをやったことがある人なら想像は付くと思うが、こういう曲こそとても合わせるのが難しいのだ。速くてノリの良い曲は多少ミスをしても何となく勢いに任せて成立し、また演奏者の気持ちも高揚するから練習という孤立した作業であっても、スタジオ内の空気が良いものだ。しかしぼくらの演奏は繰り返すたびに煮詰まっていく。
この四人の演奏レベルは、中の下という厄介な調子だった。いま何かひとつの作業を繰り返して即変化するというレベルの話ではない。下手は下手なりに飽きてくる。ギターのナカシマだけが何度演奏しても、同じだけハイテンションなアクションでやり切るのが絶えずぼくの視界に入った。身を低く屈めて強く目を閉じ、力んで演奏するその異様な様子は正直、この曲に似つかわしくない動きだったが、誰も何も言わなかった。時々ナカシマと目が合うとぼくは、口の端だけを上げて笑顔らしき表情で返した。あとの二人はナカシマを始め、誰の存在も気にしないようにして、個々の演奏にだけ集中することを決めこんだ。完全に空気がだれきっていた。
ナカシマ以外皆、無表情だった。特に盛り上がるでもなくシャウトするでもない歌をぼくは心ここにあらずで淡々と歌っていた。誤解のないように言っておくが「GT400」は素晴らしい曲だ。ただ、魂のない者の手にかかるとどんな名曲も盛り下がる。レシピ通りにただ作った料理が、誰の心にも響かないように。ナカシマ以外の三人は目的を失ったジプシーよろしく曲の流れをただ道なりに辿っていたが、時々彼が指摘することや提案などはどれもが的外れで、自分の部屋で鏡を相手に、憧れのロックスターの真似事をする、独りよがりの延長線上に過ぎなかった。
歪んだギターのエフェクト、重たいベードラの響き、それらの威勢の良さとは裏腹にスタジオ内の空気はしらけていたが、それがバンマスたるナカシマの自己満足で未熟な牽引力と、何かにどこかへ引き上げてもらおうとする体質のメンバーたちとが、合わさることで生まれたものなのか、ハッキリとしたことは何とも言えない。いずれにせよ、ちょっとした独学程度で楽器に心得のある若い者同士がセッションし、発展性のないままこのような空気に至ることはままあることだった。言いたいことが言える関係性でないこともその理由だろう。
それから特に進展もないまま三度、ぼくらはスタジオに入って「セッション」をした。二曲レパートリーは増えたが、ナカシマを除く二人は彼とのコミュニケーションにすらうんざりしているのは明らかだった。三度目のスタジオの後、ナカシマに促されてぼくは彼の行きつけの居酒屋へ連れていかれた。
「あいつら、ダメだな」
目のパッチリした可愛らしい顔に似合わない厳しい言葉で切り出し、あとの二人を糾弾し始めた。「あいつら」とぼくとの違いは何だろうといぶかりながら二杯三杯と、慣れないアルコールをちびちびやる。ナカシマはその倍のペースでビールをあおった。相当酒が強いらしい。ナカシマ曰はく、とにかくあいつらを切ってぼくたち二人で再出発しようとのことだった。
「七瀬くんは良いよ、七瀬くんのギターと歌は良い」
そう言って何度もぼくを褒めた。
「行きつけの居酒屋」と彼が言うこの店へ入ったのは午後四時くらいで、まばらだった客席も今では混み始めた。入店した直後、彼はカウンターに座るなり、彼より少し若い店主に「よおっ!」と先輩らしい態度で声をかけるも、店主の反応は冷ややかだった。ほとんど無視に等しい返事だった。ぼくは、ナカシマといることでぼくも店主に見下されているような居心地の悪さを感じながら苦いビールを舐めた。恐らくナカシマは、職場、学校、かつてのバンド友達、いろいろなコミュニティでさほど変わらない評価をされているように思えた。ただぼくは、一人っ子で子供の頃から先輩後輩といった関係性に極力触れないように生きてきたので、この場での新鮮な交流に断る術も知らなかったし、この時間を楽しめた。そのままぼくの家で「今後の音楽活動」について語らおうということになった。
喧噪を離れて静かな我が家に戻ると、しんみりした気分になり、酔いもまわってか、ぼくはプロミュージシャンになるために上京したこと、憧れのスターについての情熱を得意げに話した。ぼくはナカシマから「俺もプロを目指している、頑張ろう」という言葉を聞き出したくて核心に迫ろうと、何度か試みたが、始終はぐらかされた。何かがおかしい。
「映画好きなんだね」
ナカシマは棚に並んだ数々のDVDコレクションを目にして言った。
「俺なんかさ、酒ぐらいしか楽しみないからさ、寂しいもんだよ」
今でもこのセリフをよく覚えている。酒が楽しみ、という考えがとても新鮮だった。大学時代もただ騒ぐために、女の子の前で良いカッコをするために大酒をあおったが、心が欲した試しは一度もなかった。ちょっと羽目を外すための道具にしか過ぎなかったアルコールというアイテム。ぼくもこの人ぐらいの年齢になるとそういうふうに思うものなのだろうか。しみじみと味わう。楽しいなんて感じる日が来るのだろうか。ぼくはまだ本当に甘いジュースの方が好きだった。そんなことをぼんやり考えていると、床に着けていたぼくの手のひらに彼の手が重なった。恐怖はなく、彼の肩がぼくの肩に近づいてくるのを、どこか映画を観ているような第三者の気分で受け取っていた。
恐らく、このままじっとしているとキスされるだろうと確信した。さっさと逃げればいいものを、ぼくは頭の中で全然違うことを考えていて、その内容はと言うと、彼には妹がいて自分とよく似ている、と言った数分前の会話だった。彼は男に似つかわしくなく可愛い顔をしていた。大きな目ととんがった顎は、アニメのヒロインで通用しそうな顔つきで、薄い頭髪を覆っているバンダナを外し、ウィッグを装着すればそれなりに良い線を行くだろう。その装いで登場すれば、さっき寄った彼の行きつけの居酒屋の店主だって、笑顔で出迎えてくれるかもしれない。もしぼくとナカシマが良い関係になって親密になったら、そんなイタズラを仕掛けてみることを提案できるかもしれない。
良い関係?
良い関係って何だ?
ぼくは脳内で完全に現実逃避をし始めていた。このままでいいわけがない。
「ナカシマさん…」
ぼくは言葉でそっと彼の動きを止めた。彼もそれ以上はことを進める気配を見せなかった。始発まであと一時間というところだった。ぼくらはまた他愛もない話を続けたが、さっきよりは言葉の流れが滞りがちになった。
周囲が青い色を帯び始めたことが家の中からでもわかったので、ナカシマは立ち上がった。
「七瀬くんは、良いミュージシャンになるよ」
と言って去っていった。
その数日後ぼくはナカシマとスタジオへ入るために電話をかけた。彼は携帯を持っていなかったので職場へかけて呼び出さないといけない。
「ナカシマさんはいらっしゃいますか?」
支度中の飲食店のようで、電話に出た年配の男がちょっと待っててね、といって通話口を離れた。誰かと話す気配が聞こえて電話に戻ると、「今日はいない」と告げてきた。
恐らく居留守だった。
ぼくは二度とナカシマに連絡を試みなかった。
cut9 江口将人
「当方ギター&ボーカル志望(男/24)全パート募集。性別年齢不問。オリジナル曲多数有。ミッシェル、ダムド、クラッシュ等コピーバンドから始めてオリジナルバンド移行考えてます。完全プロ志向」
今度はぼくがメンバーを募る側にまわることにした。音楽雑誌に住所・名前・携帯番号を添えて便りを出し、翌月に掲載された。すぐに一、二件の連絡をもらい、カフェなどで対面したが彼らは皆、ギターの初心者ばかりで、肝心のドラマー、ベーシストの応募は皆無だった。本格的に楽器に打ち込む者はやはり、とっくに誰かと組んでおり、そもそも雑誌のメンバー募集を頼りになどしない。カフェで対面した彼らとも連絡が滞り、この動きは頓挫した。
ぼくは再び目の前にあるバイトをこなすことに集中した。高額の家賃を支払い、生活費を作る。心ここにあらずの状態で、時給目当てに時間を切り売りする日々に気持ちは疲弊しそうだった。だが若者ばかりがたむろする職場にいることで、少し気分は軽くなった。
音楽雑誌に募集告知が掲載されたひと月後、ぼくのもとへ一通の封筒が届いた。それにはぼくが聞いたことのない音楽事務所のロゴが印刷してあった。
ミュージックE。
代官山に住所があり、それが無名の音楽事務所であっても、地方から出てきたぼくにとってはそれなりに重みのある属性であった。
封を開けるとワープロ打ちの手紙、ミュージックEによる新人発掘オーディションの告知が記されたチラシが同封されていた。
「創立したばかりの音楽事務所」
「新しい風を起こす」
「世界を切り開くチャンス」
といった謳い文句は全てぼくの心に突き刺さった。たとえそれが、音楽雑誌のメンバー募集を絶好のリストに利用して、虱潰しに送られてきたDMであってもだ。とにかく取れる手段は逃さず実行したかった。
ぼくはすぐに、大学時代に作ったオリジナル曲からとっておきの三曲をテープに納め、プロフィールを書き添えて郵送した。
ひと月後、ぼくはそのことすら忘れかかっていたけれど、郵便ポストにあった一通の手紙で一次審査に通ったことを知らされた。
よし! やったぞ! ぼくははやる気持ちを抑えつつ「まだまだテープ審査の段階だから」と言い聞かせて、その知らせの続きを読んだ。奇妙なことに、二次審査は面談だった。ぼくはてっきりギターを持参し、どこかのスタジオに入ってのオーディションだろうと覚悟していたのだが、代官山にあるこの事務所、マンションの一室での面談とのこと。それは演奏にそもそも自信のないぼくにとっては好都合だったが、果たして一体何を見るのだろうか。音楽業界にいる人間は、会って話すだけで相手の実力を見抜けるとでも言うのだろうか。いや、わずかな音源だけでその原石を見定める能力に長けているからこそ、業界でやっていける、そういうものなのだろう。多少の不信感は拭えないものの、ぼくは自分の曲が取り合えず、誰かに肯定されたことで胸がいっぱいになっていた。
東京の音楽事務所に認められた音源。
仮にこの後の審査に落ちたとしても、この事実だけは変わらないのだ。少なくともゼロではない、まずは一つでも事務所に才能の片鱗を見初めてもらったわけだ。ぼくは一刻も早く、ピザ屋の仲間たちに自慢したかった。両親にも伝えたかった。けれど、その興奮を冷静に抑えて、誰にも報告しないまま二次審査に臨むことにした。ぬか喜びは禁物だ。
ぼくは二次審査の日程を確認した。バイトのシフトに入っている日だった。というかぼくは思いつく限り休みなくシフトに入れてもらっていた。
まだ誰にも言わないでおこう、そう決めていたが、あいつにだけは言わないとな!
「あいつ」とは、ピザ屋のバイトリーダーであるキムラだった。ぼくより二つ下だったが店での先輩でもあり、バイトの責任者でもあった。何より、プライベートでボクシングジムにも通っていて、ヤンチャで仕事熱心、根っからのムードメーカーでもある彼を、ぼくは心から尊敬し憧れていた。ルックスも良く、冗談も得意で女にもモテる。彼はぼくの理想の男だった。よくボクシングの構えや打ち込み方を教わったりした。
あいつにだけはこのことを知らせよう。シフトを組むのもキムラの仕事だった。普段なら一旦キムラが組んだシフトを、こちらの都合で変更を頼むのは、とても億劫なことだった。シフト組むのがめちゃくちゃシンドイ、とよくキムラがぼやいていたからだ。勝気で体育会系のキムラの機嫌を損ねるのは、少々後が面倒だったから、ぼくや他の者たちは大抵はいろいろな無理を飲んだ。ましてや「この日、やっぱり休ませてほしい」と直前で申し出るなど気の重いイベントだった。二つ年上であるぼくには、ある程度気を使うキムラだったが、若い連中に対しては露骨に活を入れたり、不機嫌にあしらった。あくまで体育会系の、陰湿でないノリではあったがそれなりに皆の背筋をピンと張らせた。
しかし今回は、進んで彼に早くシフト変更を申し出たいと思った。その理由を、誰かに、特にこのキムラに告げたかったから。
ぼくが「ミュージシャンになることを夢見て上京してきた関西人」であることは、ピザ屋では周知の事実だった。バイトの面々は皆、地域柄、そういう何かをしたくて上京してきた人間を多く見ているからなのか、若さゆえの屈託さなのか、誰も夢にまつわる話を突っ込んで尋ねてこなかった。たとえば「ちょっと歌ってよ」とか「楽器弾いて」といった軽々しいことを口にしない。興味がないから、というよりは安易に他人のパーソナルに踏み込もうとしないデリカシーがあるように思えた。そういった接し方はとても有難く、日常をのびのびと振舞えたのだった。
そんな彼らにはこの段階では打ち明けないと決めた。そしてキムラにだけは「シフト変更」と称して、この事実を打ち明けたかった。何よりも知ってほしかったのだ。そして実際にこの話を聞いたキムラはとても喜んでくれた。その彼の様子を尻目に、程なくして入店してきたバイトの女子大生と得意げな気分で挨拶を交わすと、この話題をペラペラとしゃべりたくなったが、それは抑えた。
一週間後、ぼくは代官山にある音楽事務所ミュージックEを訪れる日がやってきた。
テレビでしか聞き馴染みのない、お洒落なイメージのある街、代官山。手持ちの衣類から精一杯イケてるものを選んで身を包んだ。カロリーの高い食生活に慣れたせいか、少し腰回りがきつく感じられた。
ぼくは予定の時間より二時間も早く到着し、目的地を確認しておいた。方向音痴のぼくは、今ならスマホ片手にどこへでも行けるが(それでも令和の現在、たまに方向を間違うことがある)、この時はどうやってたどり着いたのだろう。ともかく随分早くその事務所のあるマンションの所在を確かめ、すぐ目の前にある雑居ビルへ入っていった。この時ぼくは何をしたかというと、カフェに入るでもなく、路上で缶コーヒー片手にタバコを吸うでもなく、事務所の入ったマンション前のビルの最上階までエレベーターで昇った。そのマンションよりも高い、その雑居ビルの最上階から、事務所があるであろうフロアを睨みつけた。ぼくはこれから渾身の度胸と運を叩きつける目的地を、そこから見下ろしたかったのだ。見下ろす、というポージングでもって自分の気持ちを高める作用にしたかったのだ。
これまでぼくは勝ち負けというものにこだわったことがなかった。スポーツも苦手だったし、誰かとの競争を強いられる状況を避けてきた。しかし、この時はさすがに思った。勝ちたい、と。
そこからマンションのエントランスを見ていると、すでに何組かの、それらしい若者たちが出入りしているのを確認できた。二、三十分に一度、お洒落な服装の若者が出ていき、それを待っていたかのようなペースで入っていく別の者。大抵は一人か二人組の、長髪もしくは奇抜な髪型と服装の者たちだった。恐らく住人ではないだろう。まだ、平日の午後を少し過ぎた時間だった。この日、ぼくをふくめて何組かが、栄光へのチケットを手渡されるのだ。現実のこととしてイメージしてみると脈拍が早くなり、胃の辺りが重く感じられた。
向かいのマンションを見下ろし、手すりにもたれてマルボロに火を点けた。気分が少し落ち着いたような気がしたが、指先がジンと痺れて軽くめまいがした。とても良い天気だった。フロアを時々行きかう人が、ぼくに不審げな視線を向けるのが分かった。そうしているうちに時間が近づいて来たので、ぼくは約束の時間より五分ほど早く事務所のインタホンを押した。
「七瀬員也と申します」
と、フルネームを告げる。
「あ、もう時間ですね。すいませんが、三十分後にもう一度来てください」
インタホン越しに男の声とやり取りをし、ぼくはその場を離れた。そしてコンビニの前でタバコを吸ったりして時間を潰した。途中、タイミングから考えて、ぼくがついさっきインタホンを押したその時には、ドアの向こうにいたと思われる、女の子と背の高い男がマンションから出てくるのを見た。お洒落なユニットとしてそのままCDジャケットの撮影ができそうな雰囲気だった。二十五分経ったのを確認し、改めて事務所を訪ねた。
「お入りください」
インタホンから聞こえる、快活なよく通る声に促されてぼくは入室した。その部屋は一般的なワンルームだったが、奥に大きな机があり、その前に人ひとり通れるくらいの空間を空けて、横並びのパイプ椅子二つとちょうどその幅ぶんの簡素な机があった。左手には樹脂製のラックがあり、書物やCDの類は見当たらず、ミュージックEというロゴの入った紙製のスタンドや、ギターやドラムの形をしたオブジェなどが置かれていた。
マンションの一室というと、ぼくは神戸での大学時代に、下宿している友人たちの部屋しか見たことがなかったので、とても新鮮だった。住まうためのコーディネートではなく、そこは紛れもなく事務所のために、機能的に仕立てられていた。ただ、用意されている物はどれも安っぽい感じがした。よく整理されているという簡素さではなく、どことなくテレビドラマのセットのような間に合わせのような雰囲気だ。それはまるで、実は壁の向こう側はむき出しの木材で支えられていて、大道具のスタッフが控えているかのような、現実と架空の世界の隔たりすら感じさせた。
また、ぼくはこれから関わるかもしれないこの業界の華々しさを少しでも味わえる手掛かりが、室内のどこかにないかと探したが、特に何も見当たらなかった。たとえば、有名人の写真やサインといった類だ。
生まれて初めて音楽事務所と称する部屋へ入ったわけだが(そもそもそれが大きいものか小さいものなのか、簡素なのか豪華なのか、といった何らかのイメージの片鱗も持ってはいない)、この部屋にはぼくを除いて一人しかいなかった。正面に据えられた机に座る男だ。インタホン越しに話した後、すぐにぼくは入室し、すでにその机に着いているわけだから、ごく普通の住居のように、壁に送話器が取り憑けられているのではなく、卓上に話せる機器があるのだろう。さすが音楽事務所は違うな。ぼくはそんなことをぼんやり考えていた。
男はずんぐりとした体型を大きめのスーツに包んで、座っていた。座っていても背が低いのが分かった。こってりと塗ったデップが照かっていて、そのオールバックに撫でつけた髪はやや薄く、肌色の頭皮と毛髪の黒色を交互に見せていた。当時はお洒落ツーブロックはまだ流行っていなかったから、とても古いタイプの、白黒の日本映画の登場人物で見るようなオールバックだった。狭い額の下にある濃い眉、力強い大きな二重の目を持ち、だんご鼻の下のぶ厚い唇は、出っ歯の骨格によってややせり出していた。
この男が江口将人だった。
こうして書いている今も、胸がキリキリと痛む名前だ。
ぼくはこの男との出会いによって、それまでの七瀬員也とは別人になる。そうせざるを得なくなる。何か激しい出来事によって、想像だにしなかった人生をその後送る、というような生き様をこれまでテレビや雑誌の中で目にしてきたが、まさかぼく自身の身に降りかかるなどということは露ほども考えてこなかった。おかげでこの頃には一ミリたりとも興味のなかったイエス・キリストの変容に関する書物などに手を伸ばし、それなりの理解と共感を得ることができたが、それは果たして人生の財産と呼べるものなのだろうか、今でも判断できない。ぼくのフィルターなんかで見極めた過去の偉人の感覚など、誤った解釈でしかないのではなかろうか。
とにかく、ぼくは生まれて初めての「殺意」を一人の人間に覚えることになる。それはもう少し後に芽生える感情だ。
cut10 「リリースに三百万かかるからさ」
甲高い声で、とても感じよく話す江口は、まるで彼自身がアルバイトの面接か何かでやって来た側で、責任者のぼくに媚を売っているかのような調子だった。
「どうぞおかけ下さい」
と言う江口に従い、ぼくは軽く一礼をして目の前のパイプ椅子に座った。奥の、少なくともこの部屋では最も重厚な机に着いた江口とややスペースを有して対峙する机に着いたぼく、という構図は本当に企業の面接を思い起こさせた。とてもミュージシャンのオーディションという体裁には程遠い。
江口は淡々とぼくの身の上を質問してきた。個人的な事ではもちろんなく、好きな音楽、これまでの活動、仲間はいるのか、これからどういう活動をしていきたい、などといったことだった。時折、眉を吊り上げたり表情豊かにしゃべる様子は、教養番組に登場する操り人形のようだった。ぼくには見えていないかCGで跡を消しただけで、口の両端から顎にかけて、人形の可動のための亀裂があるかのような錯覚すら覚えた。
面談のようなものは呆気なく終了した。ぼくの緊張のせいもあったからかとても早く時間が過ぎたように感じ、体感としては十分ちょっとだったような気がした。歌唱もギターの腕前も披露することなく、それは終わった。
常識的に考えて、そんなことはあり得ないことだ。肝心かなめのパフォーマンスを見ずに判断するなど。
しかし若く、うぬぼれたぼくというやつは、最も早い近道で憧れの人生を手に入れたいと切に願っていた。この、音楽業界で生き抜く江口のような男は、少し話をしただけで、その面構えや態度で、その者の才能のあるなしを見極められるのだろう。ぼくはそう思うことにして部屋を後にした。
一週間ほど経っただろうか、ピザの配達中に携帯が鳴った。夕方のピーク時だったので店からの連絡かなと思った。配達中に店からの連絡というのは、たいがいが商品(ピザ以外のサイドメニューがその多く)の忘れ物か、「遅い。まだ来ないのか」という客からのクレームの取り次ぎがほとんどだったから、うんざりしつつもすぐにバイクを止め、携帯を取りだすのが習慣だった。すでに切れてしまったそれは見覚えのない固定電話番号の履歴を表示していた。横浜ではなく、東京の市外局番である。ぼくはまさかの可能性を考えて、まずは配達し終えてから、公園などの静かな場所にバイクを止めてリダイヤルすることにした。短いコールの後、相手は出た。
「はい、ミュージックEです!」
普段からたくさんしゃべっていそうな、滑らかな高めの声で男が出た。ぼくが自分の名を告げ、電話をかけ直した旨を告げると、男はテンポの速い大きな声で話し出した。ぼくがこれまであまり会話をしたことのない「仕事が出来るタイプ」を連想させる男の口調だった。やや唾っ気のある声が少し不快だった。すでに直接顔を合わせている江口の声であることはすぐにわかったが、こうして機械を通して耳元で聞いてみるとまた違う人物のようにも思えた。
「オーディション、合格です!」
良い知らせを伝えるためのその口調は、前回の面談とは使い分けられたものだった。ぼくは頭が真っ白になり、これまでの重たい雲が全て晴れたような心地になった。
「お、あ…ありがとうございます!」
江口がその後の説明をしている隙間に何度も感謝の言葉を入れながら、ぼくはタバコに火を点けていた。ピザ屋の制服のままだったがそうせずにいられなかった。
改めて代官山の事務所に足を運び、打ち合わせをするということで日取りを決めると、電話を切った。そのまま宙を舞いそうな勢いでバイクを走らせピザ屋へ戻る。自分でもよく分からない独り言をずっと言いながら。
早くみんなに話したかった。まだまだ夕食時のピーク時で店は、電話やキムラの指示を出す大声で繁忙ムードが充満していたので、一時間ほどそのまま店と何軒かの家の往復をして配達を続け、バイト仲間と雑談できる程度に落ち着いたところで、ぼくはキムラにこのことを告げた。もちろん、皆の耳に聞こえる場面で、声量で。
「すげえじゃん! やったじゃん! …てか、マジかよ!」
我がことのように喜んでくれるキムラの声は一際声高で、バックヤードで休憩している連中や、調理をしている女の子たちにも十分伝わった。その中にはぼくの彼女もいた。ピザの生地を打ちながら、ぼくらの話し声に振り向く彼女の横顔が見えた。
数日後、再びぼくは代官山のミュージックEを訪れた。約束の時間より三十分早く現地付近に着いたぼくは、携帯を取り出すと江口に言われた通り、近くまで来たと事務所へ電話をかけた。
ぼくとの約束の前に、別のアーティストとの打ち合わせがあるようで、終わる時間が押すかもしれないとのことだった。コールを三回と待たずに江口が出た。
「やあ、七瀬くん!」
後ろから聞こえる、激しいテンポの音楽に埋もれて、江口のくっきりとした甲高い声が聞こえた。なぜ音量を下げないのか不思議に思いつつも相手の言葉を待った。
「一時間後にもう一度電話くれますか?」
一時間後? …ぼくはげんなりした気持ちを抑えて潔く承諾した。
「事務所からさ、駅の方に少し戻った辺りに『ジャングル』っていうカフェがあるんで、そこで待機していてください。あ、領収書もらっておいてね。宛名書き、ミュージックEで」
ぼくはホッとした。一時間と言うそこそこ長い待機時間を言い渡すも、ちゃんと領収書を切ってもらってコーヒーが飲める。さすがは音楽事務所だ。そこはお抱えの、御用達のカフェというわけだな。ぼくは、一旦気持ちを落ち着かせて、これから臨む大舞台の前にゆっくり一服ができることを大いに喜ぶことにした。タダでコーヒーが飲める。それも東京は、代官山のお洒落なカフェで!
すぐにそのカフェは分かった。六階建てのマンションの二階に店舗を構えたカフェ「ジャングル」は、外からでは検討もつかないような広い店内で、とても薄暗かったが、それは怪しさのせいではなくひたすら洗練された明度であった。平日の午後であったが、そこそこ客で埋まっていた。二人連れの若い女性客数組や、よく素性のわからないダボっとした服装の男や、とにかくぼくの生まれ育った地域では見かけない人種の集うカフェだった。普段は缶コーヒー片手にタバコを吸うのが好きなぼくも、めったに飲まない紅茶を頼んでみることにした。ぼくも、これまでは無縁だと思い込んでいた、こういうイケてる人種の仲間入りをするのだ。今、身にまとっている服装は正直に言って彼らよりもダサい。しかし、この店内にいる客たちがどんな職業で、どんな恋人と過ごしている連中かは知らないが、俺はその誰よりも上に立つことになるのだ。金も地位も、女も、何かもがミュージシャン、ロックスター、七瀬の前では膝まづくことになるだろう。今は、服だけではなく髪型も、顔つきも洗練されていないし、誰もこのオーラをキャッチすることはない。ぼくはこのカフェでそれぞれの時を過ごしている人々を哀れに思った。ぼくの飲むドリンクは、ジムショ負担だ。所属アーティストがに嗜むドリンクは、音楽事務所が払ってくれる。
熱い紅茶の注がれた透明のカップを珍し気に傾けながらタバコを吸うも、十五分で時間を持て余し始めた。まだ四十五分もあり、ここでは新聞や雑誌の類は備え付けられてはいない。よく周囲の客を見てみると、一人で来ている者は皆、文庫本を持参していたり手帳をめくっている。ぼくには何もなかったし、たとえ読みかけの小説を持参していたとしても一向に頭に入らなかっただろう。それはきっと、こうして今、無意味に数本のタバコに火を点けては消しを繰り返しているのと大差ない時間だった。しかしぼくは、この時間をとても満喫した。
忘れずに領収書をもらい、きっかり一時間後にカフェを出てぼくは、すぐに携帯でミュージックEの番号を鳴らす。今度は静けさの中から、やや落ち着いた江口の声がし、
「こちらから電話かけるまで待ってください」
という返事が返って来た。江口は続けて、もう一度カフェ、ジャングルで待っているように、と告げた。ぼくは再びカフェへ入り、ホットコーヒーを注文した。もう一度ここで過ごせということは、まだ時間がかかるということなのだろう。二本、三本と立て続けにタバコに火を点けて気持ちを落ち着かせながら、これからスタートを切る夢のような人生にイメージを馳せてみたが、口の中がヤニでねっとりとして気分が優れなかった。
待てども待てども携帯が鳴らずに四十分が過ぎ、ここが電波圏外になっているのでは、と何度か画面表示を確認するも大丈夫なようで、それから数分後に江口から着信があった。
「今から来てくれますか⁉」
こちらの疲弊と相反して元気いっぱいの江口の声を頭に響かせながら、熱い日差しの中へ戻る。ミュージックEの事務所へ入ると、奥の机の向こうで江口が姿勢よく立ち上がった。
「この度はデビュー決定、おめでとうございます! さあ、どうぞ」
とぼくをパイプ椅子へ座らせた。続けて江口は領収書の提出を促したので、カバンからそれを出した。一枚の領収書は、二度目に再び入店した時に頼んだコーヒーの分は含まれていない。何となく千円を超えるだろう領収書の提出に気が引けたので自腹を切ることにしたのだった。
二時間近く約束の時間を過ぎた、ということについて何らエクスキューズもないまま、二次審査合格についてのお祝いの言葉や軽い世間話が始まる。ぼくの個人的流儀としては、もっときちんと釈明があってもいいものだったが、この程度の時間の感覚に四の五の言わない、そういうノリがこの業界では普通なのだろうと自分に言い聞かせ、江口のまくしたてるようなおしゃべりを聞いていた。
「千五百組を越えるオーディションの中でも、七瀬くんのデモテープは、スタッフ満場一致での合格でした!」
スタッフ?
どうやらこの代表の江口の他にスタッフがいるらしい口ぶりだったが、この事務所にはそれらしい雰囲気(特に余分な机もない)はなかったので、ここの他にも事務所があるのかもしれないとぼくは思った。そんなことよりあのデモテープが認められたことで胸がいっぱいだった。
「この近くにオーガスタのオフィスあってさ、知ってる? 山崎まさよしとかスガシカオとかいるオーガスタって。あ、知ってるか。たまに会うよ、彼らと。まさよしね」
話の合間に時折、こういう話題が挟まれてぼくは興奮した。江口の唾が飛んできそうな射程範囲まで身を乗り出す勢いで聞いていた。十分近く続いた、どこかのらりくらりとした演説の展開は、あらかじめ定められた台本に基づいたようにも感じられる。その時のぼくには何のセンサーも働かなかった。つまり危機管理能力のセンサーだ。
やがて話は本題に入ることとなった。
「オリジナル曲、どれくらいあるの? アルバムを出しましょう!」
唐突に江口が切り出した。とにかく早い方が良い、と彼は続けた。絶対に売れるから、とにかくテンポアップで動きましょう、とため口と丁寧語を織り交ぜながら早口でまくしたてた。ぼくはさっきまで待たされ続けていた停滞した時間のことなどすっかり忘れて、興奮気味に聞いていた。そして江口は、ぼくのオリジナル曲がどれだけ優れているか、そして今の時代に素早く直撃させないと機を逃すといったことを述べ、ぼくが「もちろん一刻も早く発売したい」という意思を伝えたところでさらっと言った。
「リリースに三百万かかるからさ」
声の調子も表情も変化なく、一定の高いテンションを保ったまま言葉をつないでいったが、単位を付けずに放ったその数字が金のことであることは明白で、後の説明はずっとこのセリフの後ろのレイヤーから漏れ聞こえてくる、霞がかった音声に過ぎなかった。
「あの…」
と、ぼくは怯えを隠した声で割って入った。
「お金が要るんですか?」
それは「ぼくの方が出すんですか」という質問も含まれていて、その猜疑心にも似た質問は、江口にもちゃんと伝わった。彼は表情をなくした顔で「そうだよ」と一言で答える。その目つきにはどこか、侮蔑の色が滲んでいる。
「そうだよ。みんなそうなんだよ。最初から全部事務所がお膳立てしてリリース、なんてことは今の時代ないんだよ。事務所が全面的にバックアップ、なんてナンセンスだよ、そんなことは。リスクを負う、ってことはどんなビジネスにおいても常識だしね。今をときめく有名アーティスト、特にロック系の連中はファーストアルバム出すのに、最低三百万、自分たちで資金を捻出してる。だから大変だし、リスクもある。けれどそうやってリスクを身にまとって、そのうえで作品に取り組んでこそ、大衆の心に響くものが生まれるんだ。それがアーティストなんだ」
アマチュアがCDを自主制作して販売するという方法はこの頃にもあった。ただし、録音した音源とジャケットデザインを入稿する、という一連の流れは機材やデザインアプリの豊富な今ほどゆるくないし費用もそれなりにかかった。アマチュアバンドやソロアーティストが自分たちの手を施したとしたら三百万もかからないまでも、宣伝広告などのプロモーションや流通のことまで想像すると、それは決して高額ではないのかもしれない…江口の早口で聞き取りやすい言葉が、ぼくをそう思い込ませつつあった。
至極当然の金であり、現実的な金額。
江口は細やかな言葉選びで言葉を応酬し続けた。
しかし、三百万という大金などこれまでの人生で見たこともないし、せいぜい、大学生の時にちまちまやっていたアルバイトによって、何とか総計すると通り過ぎていったかどうかという金額だった。
ぼくには相談する仲間もいなかった。せめてバンドのメンバーでこの状況に直面していたらどうだったろう。一人で江口の言葉の洗礼を浴び続けるぼくには「断固拒否する」などといった選択肢は思いつかず、せめてグループだったら金額を割って捻出できるのに、と考えていたのだった。
江口はぼくにYesもNoも返事の余地も与えないまま話を進めていったが、この日の対峙の終わりにこう付け加えた。「うちが二百万用意します。七瀬くんは百万、これで行きましょう」
江口は数日以内に連絡するので、いつでも動けるように待っていてください、と言うとぼくを退室させた。ドアを閉め終わるか終わらないかのうちに江口が机上の受話器に手をかけるのが見えた。
百万なら何とかなるかもしれない。帰りの電車の中でぼんやり考えていた。江口は何も言わなかったが、ぼくは誰かメンバーを引き入れて負担を軽く出来ないかと思った。大学時代にデモテープを録音するとき、機材を貸してくれたり、手を貸してくれた友人が滋賀の田舎の方に住んでいる。ぼんやりとプロミュージシャンの夢を酒の肴に語り明かしたこともある仲間だった。帰宅すると携帯の番号をかけた。けれど、アルバムを出すのに百万いる、というセリフを軽々しく言えなかった。この打ち明け話をすることが、まるで途轍もなく重いものを持ち上げねばならないように思えて億劫に感じ、ぼくはデビューが決まったという事実だけを伝え、友人からの賛辞だけ受け取った。
その後ぼくは、彼女にメールでだけ「CD出すのが決まった」と告げた。今は帰宅途中の電車の中だから電話は出来ないと嘘をつき、その日はそのまま布団に入ったが目が冴えて一向に眠れなかった。
cut11 スタジオミュージシャンと黒スーツ
翌日、ミュージックEから電話があった。
「明日午後来れますか?」
ぼくはピザ屋のバイトリーダーであるキムラに「急遽、アルバム制作のミーティングの呼び出しがあるかも」と、予め伝えており、無理を言ってこれを優先させてもらうことにした。当然だがキムラや他の連中には三百万云々の話は切り取って伝えていた。
「契約書を作るから印鑑も持ってきてください」
それに続けて、会わせたい大物がいます、と江口は言っていた。また、場所は事務所ではなく、都内の超高級ホテルのロビーでということだった。テレビなどで名前だけは聞いたことがあるホテルだった。その名前の響きから、一生自分には縁のない場所だろうと思っていたが、江口の言う「アーティスティックな恰好で来てくださいよ、それなりの場所なんで」という念押しに、いつもより力を入れたコーディネートでその場所へ向かった。親から受け取った仕送りを使って、靴も新調した。
約束の時間きっかりにその高級ホテルのロビーへ足を踏み入れた。ゆったりとした間隔で備えられたガラステーブルと大きなソファの群れに、まばらな人々が思い思いの姿勢で座っていて、その中に短い脚を組み、こちらを睨みつけるように座る江口将人の存在は、ひときわ異彩を放っていた。
「遅かったね」
ぼくが近づくとこちらを見上げて言った。表情は固く、不機嫌そうに見えた。ぼくが向かいのソファへ腰を下ろすと、「さっき、そこのソファに〇〇がいたよ」と、ある有名女優の名前を口にした。
「つまりね、そういう場所なんだよ、ここは。そういうところで打合せをするってどういうことか理解してる? それなりの緊張感をもってもらわなきゃ困るんだよ」
ぼくは一体何を理由につるし上げられようとしているか分からないまま「すいません」と答えた。江口は「会わせたい人」について何も触れないまま、「曲は何曲用意できる?」「学生時代の仲間とかメンバーはこちらに呼べないの?」といった、今までにした質問を繰り返し、ぼくはそれに同じように答え続けた。始終強張った表情のままだった江口は十分ほどで「打合せ」を切り上げ、「事務所へ行きましょう」と言って立ち上がった。ぼくは展開の速さに圧倒されながらも、ホテルのエントランスで江口と一緒にタクシーに乗り込んだ。
ミュージックEへ到着するまでの十数分ほどの車内では江口は人が変わったように気さくな調子で、自らの業界経験や世間話を聞かせた。事務所へり、それぞれの席に着くと江口は開口一番言った。
「お金は用意できそう?」
ぼくが貯金もなく、誰にもそんな大金を借りることはできないと答えると江口は、
「きみ、アルバイトしてたよね、ピザ屋で? あと、免許証あるでしょ? …じゃあ、うん、大丈夫だ。今から場所教えるからさ、そこへ行ってカード作ってもらうんだ」
江口は歌うような調子で、まるでぼくを励ますかのような口調で、消費者金融で金を借りる提案をした。ぼくはどう答えていい分からず、まごまごしていたが、江口は優しく諭すように言葉を続けた。それらは、ぼくが一歩を踏み出すことで得られる成果を暗示させる話ばかりだった。
「ほんとさ、寝る間もなく働いたってみんなよく言うけど、まさにそんな時代だったよ」
江口は饒舌に自身の経験談を話した。
「口の中に食い物入ったまま寝てたりさ、驚いちゃったよ自分でも」
時には自分で語ったことに対して自ら笑ったり、こちらへ質問を投げかけてみたり、その話しぶりはお笑い芸人のような面白さや親しみはないものの、人の心を惹きつける力を持っていた。
某音楽事務所へ勤めていた頃、有名アーティストのマネージメントに明け暮れた苦労話や、時にはアルバム制作に資金が必要で自分が金を出したこと、それがリリース後に何倍にもなって戻ってきたこと。ぼくはただ聞いているしかない。夕飯の時間をまたぎ、すでに三時間をすでに超えていた。ぼくはパイプ椅子に同じ姿勢を保ったまま、食事も水も体に入れず、ただ話を聞いていた。時々は何らかの質問に答えたが、それらは数時間前の借金の話とは無関係のテーマだった。
空腹と疲労感にさらされる中、ぼくの感情は江口によって揺り動かされていた。時には笑い話、時には夢のある栄光をちらつかせる話、みすみすチャンスを逃して一生を棒に振る恐怖の感情を引き出させる話、とにかく江口の話法は巧みにぼくの感情をいろんな場所へ連れて行った。そして今、江口の共犯者は時間という存在であり、それは思考能力を奪っていった。唯一ぼくの思考が働いたのは「終電、間に合うかな」という算段だけだった。ぼくはいつしか、早くこの状況を終わらせたい、いま終わらせることができるなら後はどうなってもかまわない、とさえ思うようになっていた。
思考回路の最後の余力が、終電に乗って帰る時間の計算だけをさせて、結果江口に言われるがままぼくは当時有名だった消費者金融へ向かった。江口が少し離れたところで待機し、ぼくは持参していた印鑑で契約し、カードを作った。大学時代に高額ローンでギターやバイクを購入し、それぞれ完済していたことが実績になってか、百万円を借り入れることが許された。二人で事務所へ戻り、ぼくはその現金を江口に差し出し、筆跡のよく分からない領収書を受け取った。ペンで但し書きを書きつける時の江口の顔は、何か思索にふけるような淀みある表情に見えた。
帰宅してから恐怖で身体が震えるも時すでに遅しだった。今夜中に事務所は引き払われ、江口が姿を消すのではという不安に、ぼくは戦慄した。しかし翌日も無事に江口と連絡が取れ安心したが、ひと月後にはぼくはさらに五十万円を差し出すことになった。それは別の消費者金融での借金と、バイクやギター等を売ってかき集めた金だった。
「三百万あればCDを出せる。けれどそれは『打ち込みによるアルバム制作』ね。やっぱ、ちゃんとスタジオミュ―ジシャンを雇って録音すべきだよ」
というのが新たな言い分だった。
「もちろん、アーティストは君だから、君が決めればいいよ。納得の行く作品を作りましょう!」
そう言って江口はまた別の日に、実際にレコーディング前にリハーサルをやろう、という口実のもと、ぼくを都内のスタジオへ連れ出した。
「最高のスタジオミュージシャンをそろえますから」
そう言った江口の笑顔は、人を不安にさせる何かを放っていた。
「スタジオミュージシャン」たちの曖昧な演奏を聴けば、彼らもぼくと同じやり口で釣られてきた連中であることが分かった。つまりDMが届き、オーディションを受け、ミュージックEに「審査」によって見初められた若者たち。恐らく、ぼくのデモテープをもとにコード進行やメロディを耳コピさせられて当日を迎えたのだろうが、ギタリスト、ベーシスト、ドラマー、皆お互いに、この日初めて会ったような面喰った表情を始終たたえていたし、めちゃくちゃな演奏だった。それは以前、ぼくの体を狙ったナカシマと都内のスタジオで延々同じ曲を合わせ続けたあの時間に似ていた。また、ぼくらの他に黒いスーツ姿の男が一人いて、これが常々江口が口にするスタッフとやらなのかもしれなかったが、一切口を開くことなく、こちらから話しかけるのも憚られるような雰囲気に包まれていた。
「スタジオミュージシャン」たちとぼくは、互いに打ち解け合う機会も与えられないまま、その場を解散させられた。黒スーツの男がぼくらが交流しないように監視しているような気配を感じたが、それをどうすることも出来ないままスタジオをあとにした。
この翌日、江口はぼくに電話をかけてきて、
「昨日はお疲れさん! 今さ、昨日録音したテープ聞いてんだけど、これ最高だぜ! これで『やっぱり打ち込みでアルバム作ります』なんて言ったらバカだぜ!」
ハイテンションでまくしたてる後ろで、激しい音楽が鳴っている。「ちょっと聞いて見な」と言われるまま耳を澄ませ、ほとんどドラムとベース音だけしか聞き取れなかったが、紛れもなく昨日のぼくらの「リハーサル」音源だった。電話越しに聞いても素人以下の演奏だと分かる。それでもぼくは五十万円を何とか用立て、江口に渡した。「打ち込みによるアルバム」から「生演奏によるアルバム」へ昇格させるために。
ぼくは江口の機嫌を損ねたくい、という心境に達していた。また、百万をすでに借りていて、後に引けなかったのだ。バイト仲間、彼女、友人、両親、あらゆる人々にぼくは自分の成功物語のプロローグを報告していた。後戻りできる段階ではなかった。
ぼくが四十代を越えた頃、友人が「甥っ子が変な宗教団体に騙されている」と語ってくれた。随分と金を突っ込み、その思想に邁進しているらしい。
「なんでこんな嘘っぱちだと分かり切った仕組みに騙されているんだろう」
甥っ子くんに長時間の説得を試みた後、その頑なに目覚めようとしない姿勢に友人は嘆いた。ぼくはこう語った。
「甥っ子くんは、自分が騙されていることを薄々、どころかちゃんと分かっている」と。ただ、それを認めたくないだけなのだ。信じていたいのだ、これは正解であると。行き切った先に何が待っているのかは知らない。しかし、現時点で自分が「詐欺に遭っている」と認めてしまうと、それまで自分がやってきたことを自分で否定してしまうことになってしまう、という極めて刹那的なごまかしに身を任せねばならないほどに自己防衛を余儀なくされているだけなのだった。
ぼくはこれまで数多くの悩める人たちと出会ってきた。会社の愚痴を言う男、謝れない子供、DVを受ける女、DVをする側の男、だめな男に貢ぐ女…彼らにぼくがすることはただひとつだ。
何もしない、を行使することだった。
彼らは皆、自分で選んでいる。それが第三者から見て正解なのか不正解なのかは問題ではない。その道筋を盲信し、選んだ自分を鼓舞し、正解だと信じようとしている。それを遮ることなど誰にもできない。無理に説得しようとすると反感を抱かせ、より強固な自分の殻に閉じこもる。外側からだけではなく、内側からも破壊できないほど強固な殻だ。
もしぼくがこの当時のぼくのもとへ行けるとしたら?
それでもこの考えは変わらない。なぜなら、二十代のぼくはきっと、自分を否定をしに未来からやって来た、四十過ぎのぼくを憎み、敵視するだろうから。お前は何も分かっていない、と若いぼくはおっさんになったぼくに刃を向けるに違いない。しかし時には相手のそういう反応を分かっていても、諍いが起こると知っていても全力で立ち向かい、相手の目を覚まさせないといけない局面もある。しかし、ぼくらは痛みを知るための時間、時間を経ることでしか次に進めない弱さを抱えた生き物だ。その学習過程を誰かが邪魔することはできない、という矛盾した考えを持つこともどうか認めて頂きたい。蝶になる前の芋虫くんがその美しいとは言い難い容姿ゆえ、たとえみんなから忌み嫌われようと、その過程なしに美しい成虫になりえないのと同じだ。
だからぼくは、あの日の自分をこう思う。正しいかどうかは別として、卑しい存在に操られて導かれるまま、意気揚々と進み続けるあの日のぼくの感情を、シルエットを、愛おしく思えるのだ。
ミュージックEと江口将人。
ぼくはCDをリリースすることはなかったし、金が返ってくることもなかった。
追加の五十万を注ぎ込んだ後、江口はのらりくらりと進展を先延ばしにした。電話をかけるたびに大抵は江口は事務所にいて話はできたが、「次の打合せの日程はまたこちらから連絡します」だの「あと五曲用意しといてください」だのと冷淡に対応した。実際に事務所へ行くこともあったが、その度に「この曲の歌詞を変更した方が良い」などといった理由で事態を常に停滞させていた。
我慢ができずぼくは、時には電話で暴言も吐いた。
「金返してくれ! CDまだ作ってないんやから、後で出した五十万は返せるやろ⁉ もう打ち込みでええから返しさらせっ」
携帯代も払えず、ぼくは公衆電話で人目も憚らずこういうやり取りをすることもあった。江口はこういう時、ドラマの悪のボスのように冷静沈着といったクレバーな対応ができず、感情をむき出しにしてこちらに相対した。しばらく大声の応酬が続き物別れに終わったり、ぼくが一方的に電話を切るかで幕を閉じるが、大抵はぼくの方から後日「すいませんでした」と電話をかけて鎮火させる。それはまるでDVを受け続けても、恋人から離れられない愚か者のような心境だった。
江口も江口で、すぐにトン面してぼくの前から姿を消さなかったのは、恐らく他の「獲物」と同時進行でことを進めていたからだろう。飴をなめさせ説得する、それは「仕事」としては、それなりの才能とすごく根気のいる作業だろう。打ち合わせ時間を遅らせ放置プレイ、時には笑顔、時には冷たい態度で感情を弄ぶ。水を与えたかと思えば突如それを打ち切り、水を与えず喉をカラカラにさせてから仕留める。持ち上げたり突き放したり、それぞれの獲物によってフェーズを使い分けながら一日中働いているのだろう。あたかも現在のぼくが、それぞれ制作過程の異なる作品ごとに、同時進行で手を入れている状況のように。
当然、逃がしてしまった獲物も多くいるだろう。江口のどこかイライラして機嫌の悪そうな口調から、「仕事」がうまく行っていないなと感づかせる日もあった。獲物たちは皆が皆、ぼくのようなお人好しばかりではないのだろう。
ある日を境に事務所もあの男も消えるその日まで、幾度も江口を殺害することを本気で考えた。人は自分のプライドを傷つけられた時に本気で誰かを憎悪するのだ、ということを知った。しかし実行に至らなかったのは、ぼくの周囲にはいい奴らがたくさんいたからだ。彼女もいた。しかし彼らに、このぼくの情けない顛末を思い切って語ったのは少し時間が経ってからだった。
ぼくは生まれ育った地を離れて、二年半という月日を横浜で過ごした。たくさんの血を流した気分だった。もちろんぼく自身の血だけではなく、ぼくと関わった他の人の血もふくめてだ。
ぼくはここから離れて生きる方を選ぶことにした。彼女とは遠距離恋愛することにした、とりあえずは。
ぼくは、ぼくが努力をしていないことを知っていた。その上で何者かになることを望んでいた。それが間違っているとは思わない。そういう若者はいつの時代にもいる。間違っているとは思わないが、確かなことは、そういう人間は、弱い。弱く、移ろいやすい。肝心なのは、そこにつけ入り奪おうとする怪物がこの世にはいる、ということを知っておくことだ。もしかすると、別の未来があるとしたらぼくは見事ミュージシャンになれて、そのぼくという脆弱な人間が作る歌、歌う歌に心を打たれる観客が待っていたのかもしれない。しかし、仮にそうだったとしても、自分すら信用できない者の生み出す作品に誰かを巻き込むことはやはり、罪であり、あまり良い未来が待ち受けていなかったのかもしれない。誰にもそれを知るすべはない。江口という存在がそれに歯止めをかけたことを自分にとって意味のあることにできるのは、この世で一人しかいない。
江口将人という男が二〇〇八年か九年、交番で借りた金を返さず、寸借詐欺という小さな罪で捕まったという記事を読んだ。浸透し始めたインターネットで、ミュージックEと江口の名前を追うサイトはいくつか存在していて、「ニセ音楽事務所」「夢を追う若者を食い物にする詐欺師」といった文言が見出しにあった。そんな、狭いコミュニティーの一部の盛り上がりに終止符を打ったニュースだった。この当時、ぼくはサラリーマンでバリバリやっていた頃だったし、目の前の雑多なことに心を奪われていてさほど気にも留めなかった。何よりも、たくさん世話をかけた両親にいろいろな恩返しをすることが一番興味のあることだった。たくさんのことを学ぶ時間をくれた存在だったが、もうぼくには必要なかった。その時にはもうぼくの人生にとって、江口将人という存在の役目は済んでいた。
cut12 死ぬわけでもなく、決別するわでもなく、ただのさよならのはずなのに。(第一部完結)
いともたやすく大金をせしめられたことで、ぼくは江口を恨むよりも自分の頼りなさを責めた。問題は、悪意がこの世に存在することよりも、その悪意がつけこみやすい弱さがぼくの中にあることだった。もしぼくが圧倒的な努力で磨かれた、音楽であれスポーツであれ処世術であれ、何らかの技術を持ち、その才能の貴重さを信じて地道に駒を進めていたとしたら、それは悪という低次元の産物を近寄らせることはなかったはずだった。
姫路へ戻ったぼくは実家に住み、アルバイトをして過ごした。毎月、周囲の目を気にしながら暗くなった時間を見計らい、消費者金融のATMへこそこそと入るのは神経をすり減らす行為だった。わずかなバイト代から数万円を返済として捻出することも惨めだったが、何よりそのたびに江口の顔や声を思い出し、常にあの日々から逃れられないような気がして辛かった。それでも少しずつ完済へと近づいてはいた。本当に、じりじりとノロい速度であったが。
二年ほどこの日々は繰り返された。オープンしたばかりのカレー屋でのアルバイトでは、調理を担当した。接客をするよりも狭い厨房へ引っ込んで、ひたすら注文をこなしたり仕込みをすることで精神はいくぶん落ち着いた。一人で考え事をしながら黙々と作業をする、そういった種類のことは生来、ぼくの性に合っていた。
仕込み用の巨大な寸胴鍋で出来上がりつつあるカレーをかき混ぜながら時々、頭の中に空白が出来ると、江口の記憶や百万以上の借金の存在が侵入してきて脈拍が上がり、波打ち、呼吸が苦しくなった。そんな時はぼくはギターを弾き歌を歌い、その苦しみを即席的に封じ込めた。
自分の向かう先というものを完全に見失っていたが、人前で音楽をやる機会をまめに作った。ライブイベントや知人のカフェ、夏のビアガーデンではステージに上がることでわずかだがギャラももらえて、賄いも付いた。横浜に住んでいた時には気持ちが怯んでいたステージでの演奏だったが寧ろ、その頃よりも精力的にライブに出た。
「音楽で飯を食う、それがおれの目指すべき人生」などという大それた目的から解放されたせいか、技術がなくても客が少なくてもとても楽しめたし、年齢差を問わず知り合いが増えていったのも刺激的だった。
横浜に置いて来た彼女とは遠距離恋愛が続いていた。三か月に一度の逢瀬は、借金を返済し続けるぼくのためにその経済力を労って、彼女が姫路まで来てくれることで実現していた。金銭的なこともあるが、ぼくは横浜はおろか東京にも行きたくなかった。一生足を踏み入れることはないとさえ思っていた。ぼくが帰郷してすぐ、彼女はバイト先のピザ屋を卒業し、内定が決まっていた企業へ就職した。世界各地に展開する大手の起業だった。不定期にしか取れない貴重な休暇を使って、彼女はぼくのために会いに来てくれた。けれど、フリーターの身分であり、惨めな都落ちを果たした自分を責め続けるぼくは(そうすることで自分の精神を落ち着かせていた)、会うたびに彼女との時間を素直に楽しめなくなった。あまりにも身分に差がありすぎるように感じられた。なにせ彼女の勤めている会社は、ハリウッドスターと顔を合わせる機会もあるような、一般的に考えて在りえない世界線を股にかけているほどだった。何でもないようなことみたく、彼女はそういうエピソードのいくつかを口にするが(もちろん自慢話などではなくぼくを楽しませようとして、あるいはごく自然な会話として)、ぼくはその度に面白おかしく話を聞く顔をしつつ、どこか心の奥に暗いものを感じていた。そういった自分の気持ちをストレートに打ち明けることもしなかったが、陽気な彼女はそんなぼくの醸し出す憂いをかき消すようにして明るく振舞った。
ぼくらは新幹線のホームでの別れ際、いつも泣いた。遠く離れた地に住む恋人を逢瀬のあと見送る。そんな場面など、それまで映画やドラマの中でしか見たことのなかった、架空のキャラクターたちにしか訪れないシーンだと思ってきた。
死ぬわけでもなく、決別するわでもなく、ただのさよならのはずなのに。
すぐには会いに行けない場所へと帰っていくお互いを見送る。でも、それで最後になるわけではない。それぞれの家へ帰るだけだ。頭では分かっている。しかし、いざ新幹線の発車の時間が迫ってくると勝手に涙が溢れた。周囲を人々が通り過ぎていき、ぼくらは互いに身を預けたまま、おかまいなしに泣いた。何一つ言葉は出なかった。相手にかけて欲しい言葉すら思いつかず、永遠を浮遊しているだけの時間を味わった。
ぼくは彼女を愛していた。彼女も同じだった。しかし少しずつ何かがずれ始めていた。生まれ育った土地で再び暮らし出したぼくの心は横浜にいる頃よりとてもリラックスしていたから、そういう意味では精神的な状態は良好と言えたが、彼女と出会った頃とは別のぼくのようでもあった。一流企業に就職した彼女に引け目を感じていた、という最初の違和感を皮切りに、ぼくは少しずつ時間をかけて、細胞が一つずつ入れ替わっていくようにして全身丸ごと別人になっていった。
アルバイト、弾き語り、遠距離恋愛。
姫路へ戻ってから二年近く経った九月にぼくはある会社に正社員として就職をした。その決意をして実行に移した時点で最早、彼女が知っていたぼくとは別人のぼくだった。ぼくは別人になりたかったのだ。自分とは真逆の、なりたかった自分に。自分に自信があり努力家で、知識を持ち、さらに突き進むべき道に必要な情報収集と分析をしたうえで、強靭な強さを身に着けた、何者からも奪われることのない男。たとえば、華やかな人生に憧れて、その近道をちらつかされて挙句、あっさりと悪者のいいようにされてしまうような弱者とは違う、別人に。
別人になる決意をしたぼくはもう、彼女のことを必要としなくなっていた。もし女という対象として誰かが要るのであれば、彼女は恰好の存在であり、すぐに会うことができて、楽しく食事したり定期的にベッドを共にできる相手だった。思い出したくない記憶を想起させる香りをふんだんに含んだ、あの地からやってくる女であるという事実を除いては。
ぼくは入社してすぐ、そこに勤める子と付き合うようになった。横浜の彼女にはまだ何も告げないままだったが、姫路へ会いに来てくれた時に、
「別れよう。好きな人ができた」
すでに他の女を抱き交際が始まっている事実を巧妙に隠して曖昧な言葉で伝えた。あたかも生真面目で誠実な男が、互いの良い未来を考えたうえで苦渋の決断をしたかのような善人ヅラをして。
別れ話を、どのタイミングで言うかを探しながらカフェへ行ったり、街をうろついてみたりしたが、彼女が楽しそうにしているのを見るたびにぼくの心は曇った。いずれにせよ早く切り出した方がいいと思い、日が沈む前に切り出した。彼女は哀しい目をしつつも取り乱したりしなかった。まるで背中に背負わされた途轍もない重りを、へっちゃらだと訴えるかのような修行に耐える面持ちであった。
夕暮れに別れ話をした二人は、ぼくの両親も公認の仲だったのでその夜はぼくの実家で夕飯を食べ、泊まった。夕飯の時、ぼくらの行く末を何も知らない母親が、
「はい、プレゼント」
と言って用意していた紙袋を彼女に差し出した。中身は、今の若い女の子が使うような、流行りの色と形をしたバッグだった。年輩の母親がよくこれを選んだものだとぼくは感心した。いつも何でも自分の好みで選ぶ母親だったが、気をきかせて若い女子店員に助言を求めた結果なのかもしれない。ぼんやりとそんなことに思いを馳せることで、ぼくは自分の平穏ではない心をごまかした。
「わあ! ありがとうございます! 大事にします!」
屈託なく彼女は笑って受け取ったが、二度とぼくの母親と会うことはない。ぼくはそう思うとちくちくと胸が痛んだ。
夕食と風呂を終え、ぼくらは二つの布団を並べた部屋で灯りを消した。暗闇の中、ぼくらはお互いが眠れずにじっとしている気配を感じ合った。
不意に、噛みしめるような無言の時間に終わりを告げるようにして彼女は言った。
「…ねぇ。…もうだめなの?」
か細い声でぼくらの愛の未来に関する憂いの言葉を放ち、彼女はぼくの布団にゆっくりと入って来た。それをぼくが拒否するのであれば、十分にその時間と隙のある、とてもゆったりとした、相手を気遣うような、まるで交響曲のアダージェットの導入の調べのような気配だった。そして彼女はぼくの局部に手を当てて、静かに泣いていた。隣の部屋では両親が寝ており、その事実とは関係なく、ぼくは彼女を引きはがした。
「反対に寝るよ」
ぼくはそれだけ言って、枕の位置を上下さかさまにして、彼女の顔の方にぼくの足が来るように向きを変えて布団に入った。
別人のぼくは心が乾いていた。
さっき母親が今風の女子の喜びそうなバッグを、贈り物として食卓に出した時、一瞬ぼくは彼女と出会った頃のぼくに戻ったような気がしたが、やはりそれは思い違いだった。それはまるで、前世の記憶が不意にフラッシュバックしたかのような、つまりその程度の想念にしか過ぎなかった。今現在を向き合う者にとって、大した意味のあるメッセージのようには感じられなかった。
数年後、彼女が幼馴染の男と結婚し、二児の母親になったことを知ったのは、ぼくがサラリーマンを辞めた後だった。十年近く経ってからのことだった。かつてぼくも彼女の友人グループとは交流があったので、その幼なじみの彼のことは知っていたが、とても良い奴だった。今でも幸せに暮らしていることを心から願っている。無責任な事勿れ主義の生み出した気持ちではない。一般的に見てさして幸福とは言い難い人生を歩むぼくがそう言っているのだから、それをどうか否定しないでほしい。
彼女と別れ、見送った後、ぼくは社内恋愛の相手にすぐ三下り半を突き付けられた。その女はすぐに別の社員の男と付き合うようになったのだ。これはまるで笑い話のように聞こえるかもしれないが、社内の飲み会で、ぼくの目の前の席でいちゃいちゃしたりする様子を見せつけられた(この小説は事実をもとに脚色を加えつつも、読者の皆さんの大半が大好物である悲劇的な部分はほぼ実話である。実名や時系列はちがえど)。この流れにぼくは深く傷ついたが、その時のぼくさえも今のぼくからすると別人だった、と正面切って言える。
彼女も横浜へ帰った後、うまく別人になれたのだろうか。ぼくに未練を抱いていた頃とは違う別人に。
この世で、別れていった恋人同士の皆が経験するような、別れのあとのちょっとした湿っぽいやり取りの中で、織物のような愛の名残を確認し合った。時代によってそれらは手紙であったり、電話であったり、メールであったり、LINEであったり、不毛な性行為であったり、きっと様々だろう。形になど意味はない。
この別れのあと、一年ぐらい過ぎたある夜に彼女から唐突に電話があった。昼も夜も携帯が鳴りやまないほど忙しくしていたぼくが、珍しくさっさと携帯を取り出せる、まっさらなタイミングだった。まるで全知全能の神が導いたかのような、モーゼが紅海を分かつような、レオナルド・ダ・ヴィンチの描くヨゼフが一方向を指し示すような、そんな確かなスポットライトがこの瞬間には当てられた。
「ナナ」
「久しぶり」
「うん、ひさしぶり」
彼女の声は、最初から最後まで緊張で固く強張っていた。ぼくのほうも何となく居住まいを正さねばバランスが取れないような会話になりそうだった。
「どうしたん?」
「…ナナ。…あたしと結婚して」
ぼくはその言葉の意味を理解しようとする前に、ひとつの懐かしいような違和感をこの時理解した。彼女の声の後ろで聞き取れる雑音。それは、あのピザ屋での喧噪だった。厳密に言うとバックヤードと飛ばれる休憩室での、聞き馴染みのある連中の声、BGM。きっとそこにいた者にしか推理できない空気。ぼくには分かった。彼女は言葉を続けた。
「ナナ、お願い。断らないで、私と結婚してほしいの。女の私からこんなこと言わせて、まさか断るってこと、ないよね」
彼女の声には一切、冗談めかしたところはなかった。自分で言って、自分でヘラヘラ笑う、といったような逃げ道は微塵も残さぬ、清廉潔白な口調だった。だからぼくは、同じように真剣に答えた。
「できひんよ。好きな子が、おる」
少し間があって、彼女は静かに答えた。
「わかった。今までありがとう。これ言わなきゃ、先に進めなかったんだ。OKしてくれたら、姫路に住んで、ナナのそばにずっといようって決めていた。ナナ、幸せになってね。ありがとう」
彼女はそそくさと電話を切った。
それが、今から泣き出してしまうであろう自分の声や気配を、ぼくに悟られまいとする手段であることは、この世でぼくだけが理解している事実だった。宇宙に全知全能の存在がいるとして、そいつに言ってやりたいことがある。おれたちは、確実に生きた、と。
この、思い付きで書き始めた自叙伝のような、私小説のような、よく成り立ちの分からぬ文章を、とにかく「書こう」と思い、ここまでキーボードを叩いてようやく気付いたことだったが、この時点できっと彼女は、幼馴染の彼からプロポーズを受けていて、その返答に迷うという岐路に立っていたのだろう。当時は思いもしなかったことだった。
ぼくは別人になった。
彼女はどうなのだろう。
彼女は、ぼくのように「別人になる」といった決意の持つ憂いなど、一切感じさせない潔さが魅力の女性だった。今でも 彼女は彼女のままなのだろうか。それとも、ぼくの知らない彼女の歴史的タイミングでもって、別人になってしまっただろうか。
そして、ぼくが傷つけた深い痕跡を今でも負っているのだろうか。
第一部完(第二部へつづく)
第二部
cut1 ユヅキ
話は随分遠くまで遡ってしまったけれど、とにかくぼくは三十歳を前にその会社に入社することとなった。そして皆さんには、ぼくが自分のことを厳しい環境に置く決意をした理由が分かってもらえたかと思う。
別人になろうと必死でもあった。そしてぼくは営業マンとなり、自分の持ち味でもある大喜利的な視点で工夫し、ライバルが手を着けていない畑を耕すことでトップセールスマンになった。入社して四年経ち、ぼくはそうやって一つの目標を叶えた。
仕事は楽しかった。家庭を持つには至っていなかったがこのままやっていける自信は持てた。しかし、常に戦い続ける毎日であり、売り上げを作るということは毎月結果を出すさねばならず、いつも何かに追われていた。また、目に見える数字を出そうが出すまいが、連日、朝一番の社長の怒号を聞かねばならず、それは他の社員の時もあればぼくがターゲットの時もある。全ては社長の気分次第だった。売り上げを上げるために頑張るのは、この怒号から逃れるための火消しの作業に近かったが、それでも多くの客と触れ合い、商品を売ることで喜んでもらえることに、充実感はあった。
この時期、ぼくはストレスを発散させるように毎週のように呑み会を開いた。大抵は参加するよりも自らセッティングして、営業先や飲みの席で知り合った、一度や二度会っただけの男も女も、みんな巻き込んだ。そういう目的だったではないにしろ、ぼくは何人かの女の子と寝た。簡単な言葉にしてしまうとそれは「酒の勢い」と言えるのだろうが、女を口説くというよりは、音楽のセッションに近かった。会話・笑い声・討論といったコミュニケーションの延長線上にある、偶然にもお互いにとって、最も親密になるための近道で、手軽な挨拶のようなものだった。欲望とはちょっと違う。相手はどう思っていたかは別にして、少なくともぼくにとってはそういう心理だった。
ある夜、「休憩」として入室したホテルの一室で行為を終え、女の子の裸体をぼんやり眺めていると、ぼくは心の奥底に眠っていた何かが少しずつ目覚めていくのを感じた。
ぼくは無性に絵が描きたくなった。
半分眠りかけているその女の首筋、肩、腰につながるラインは見れば見るほど美しく、どうしてもその線を描かずにいられなくなった。
これは、性欲とは違う。何と言うのだろうか。画欲?
仕事帰りで呑み会へ行くのがいつものことだったので、朝からそのまま持参して来た地味な手提げカバンから、ボールペンの付いた手帳を取り出すと、その場でクロッキーを始めた。長い間、こういう衝動を持って絵を描いていなかった。社用車の中、携帯で話しながらの手遊びで、心ここにあらずの落書きを描くくらいだったが、それでもその辺の人よりクオリティの高い自信はあった。
数分で描いたクロッキーは満足のいく出来栄えだった。描いているこの時間がとても楽しかった。ぼくはそれ以降、毎度ではないにしろ呑み会で出会った女の子たちと、それまでより頻繁に寝るようになった。相手は、いつも違う顔ぶれだった。そして必ずことが終わると彼女たちを描いた。手帳や紙切れにボールペン、という即席の道具だった。うとうとしている間にこっそり描くこともあれば、面と向かって宣言して描くこともあった。
「なあ、絵を描いてもいい?」
恥ずかしがって拒否されるのではと思ったが、皆喜んで描くことを許してくれた。ポーズを取ってもらうまではリクエストしなかったが、ただ寝そべっているだけで彼女たちは皆、美しかった。
後になって気づいたことだが、ぼくは「描きたい」と思う女を無意識に誘って、選んでいたのだと思う。ついさっきの表現の中で、「口説いている」ということを否定しているように述べたが、「モデルをお願いする」という最終目的においてはやはり、ぼくは彼女たちを口説いていたのだろう。ぼくは違う意味で彼女たちの体が目当てと言えた。
そういった日々が続く中で、ぼくは次第に仕事へのモチベーションを落としつつあった。社長の長男店長の嫌がらせが始まったからだった。客前でくさし、父親である社長へぼくの失敗やそれに関する所感を、多くの論理的に見える言葉を使って正論風のパッケージで包んで報告する、新人の前でもぼくを説教をするといった、自尊心を打ちのめす行為などが徐々にエスカレートしていった。またそれらは巧妙で、反論しにくい話法とシチュエーションを上手に織り交ぜて行われた。間違っても、それを仮に録音して人に聞かせたところでパワハラとは認定できない、うまい話しぶりだった。すぐに腹から大声で喚き散らす社長とは対照的で、よりズル賢かった。
朝、出社してすぐ、顔を合わすなり社長からの恫喝、外回り中に携帯電話による長男からの説教、この二重構造による攻撃を受けた後、車から降り、客のもとへ向かう気持ちを奮い立たせるのに、精神的な負荷が半端ではなかった。週の半分はこのパターンだった。また、彼らからの電話は休みの日にも容赦なかった。
ぼくはストレスで、性的に不能になってしまった。つまり性器が勃起しなくなったのだ。
ある呑み会で知り合った女の子と行為に及ぼうとして、自分の体の異変が分かった。最初はもちろん「飲み過ぎたせいだろう」と軽く流した。深刻さよりも、女の子に対する恥ずかしさの方が強く、気まずい思いだった。しかし後日、アダルトDVDを見た時に何の反応もなく、ただただ一時間じっと座って鑑賞し終えたのだった。映画じゃあるまいし。シラフだったぼくは、さすがにこれはまずいと感じた。
欲望、見たい、触れたいという気持ちはある。けれど肉体としての機能が、全く反応しないのだった。ぼくは仲の良い業者の人にこの話をした。彼はぼくに一錠の薬を手渡してくれた。バイアグラだった。ぼくより十ほど年上の彼は、ぼくの年齢よりも若い奥さんを持ち、彼女との夜の時間に時々この薬を使用しているそうだった。
「中学生に戻ったみたいに、とても良く効きますよ」
まだ三十代前半のぼくがこんな薬を使う日が来るなんて、夢にも思わなかったがとにかく、その夜薬を飲んだ。本物の女性相手ではうまく効かなかった時のことを考えると恐ろしかったので、服用後、またDVDを見ることにした。
結果は同じだった。何枚も別のDVDを入れ替えたりして見たが無反応のまま、夜が明け始めた。
ぼくは恐怖を覚えた。生きるために必要な能力を絶たれる。死んではいないもののそれに近しい状態に思えた。明らかにストレスの賜物だった。薬が効かないということは、肉体的な疾患ではないということだろう。ぼくは恐ろしくて医者へも行けなかった。もし医者へ行くとなると、何か対処法が知らされるにしても、病名などのキャプションが授けられるということは、何か呪いか烙印のようなもので縛られるような気がした。それに恥ずかしかった。
ぼくはこの症状から目を背け、気にしないことにした。それが一番の解決策のように思えたからだった。親しい友人の何人かには、
「女の子にとっては、たとえ一晩一緒に過ごしても身の安全を保障された、人生相談も出来るご意見番、みたいな異性。そうやって生きるのも悪くないかな」
などと冗談まじりに言ってはいたが。
代わりにアルコールで気を紛らわせた。もともと下戸だったので、本当の酒飲みからすると可愛いものだとは思うが、よく酩酊するまで飲んだ。
そしてそんな状況下、ぼくは恋をした。
ユヅキはぼくより一回り以上離れた二十歳、長男店長の店に入社してきた。ぼくが退職することになる、三年前のことだった。別の店舗の女子社員と仕事で関わることはほとんどなかったが、ユヅキは営業として配属され、時々ぼくも彼女を指導するために営業に同行することがあったのだった。
彼女は背の高い弦楽器奏者だった。弓で奏でる大きな楽器を所有していた。ぼくは一目見てすぐ「絵を描きたい」と思った。それがぼくの恋愛のような衝動であることはもうお分かりだろう。しかし同じ職場の一回りも年下の女を、コンパで知り合った相手のように簡単には食事に誘う気にはなれなかった。
ある時、ぼくが運転する車で一日営業に同行し、夕方に彼女の勤務する店舗で下ろした。いつも通りぼくに頭を下げて礼を言い、店へ入っていく彼女の後姿をミラーで確認しつつ、車を走らせようとすると、助手席にある物に気づいた。明るい色をしたポストカードくらいの紙袋の中に入っていたのは、数百円の市販のチョコレートだった。
「今日は難しいお客さんの手ほどきありがとうございました♡ というかいつもありがとうございます。感謝をこめて
ユヅキ」
という可愛い小さなメモが添えられた、バレンタインデーでもない日にもらったチョコレートに、ぼくは完全にやられたのだ。ぼくはチョコに目がなく、他愛のない世間話の中でユヅキは、そのことを覚えていたのだ。そしてこのささやかなプレゼントのお返しに、と称してぼくはユヅキを食事に誘うことが可能になった。
ユヅキはいつも受け身の女性だった。ぼくが観たい映画や行きたい場所へ、いつも笑顔でついて来てくれた。それまでぼくが付き合った相手とはいつも、ぼくがその人の要望を聞き入れる側にまわってデートをしてきた。何となく男女関係とはそういうもののように思って恋愛というものを経験してきたが、ユヅキは自分の全く知らない世界を、ぼくのフィルターを通して屈託なく楽しんでくれた。また、彼女はよくぼくに贈り物をしてくれたが、これも今までの相手と違う点だった。実はぼくの記憶違いで、それまでの恋人たちとも、同じくらい互いに贈り物を交換し合ってきてたにもかかわらず印象操作が働いた結果、ぼくはそう信じていただけなのかもしれない。しかし、男のぼくに贈り物をしてくれた恋人が、まるでユヅキ一人だったかのように思い出される。そのようにしてユヅキの選んだ品々が心に強く残っていたのは、そのどれもがとても趣味の良い物で、特にぼくの感覚に似合っていたからかもしれない。きっとそれは偶然ではなく、彼女がぼくを真っすぐ、確かに見てくれていたからだった。
十代の時、彼女は交際相手を亡くしていた。自殺だった。厳密には彼女と別れた直後の顛末だったらしい。ユヅキの存在が、その死別の直接の原因ではなかったにせよ、そのせいか彼女はどこか心を閉ざしているようにも思えた。無論、この件についても彼女は包み隠さず話してくれるし、ご両親の趣味や自分の職場に対する、明け透けな不満も思う存分語ってくれる。全てが透明で、言葉も態度も濁さなかった。けれど、そういったこととは別の種類の不透明な膜が、彼女の魂を覆っているように感じられた。すらっと伸びた身長や短髪の似合う魅力的な顔の形や声、そういったことではなく、もしかするとぼくは彼女の、実は良く得体の知れない何かに惹かれていたのかもしれない。
そんなユヅキを、ぼくは最後まで抱くことができなかった。もちろん、「性的に」という意味においてである。こみ上げる想いを込めて抱擁をしたり、七面倒くさい言葉の代わりにキスをし続けたり、互いの精神に触れるような肉体的交流はいつも交わした。しかし文字通りぼくは、ユヅキをその先の快楽で満たすことはできなかった。ぼくのストレスから来る性的不能は、美しく愛おしいユヅキを相手にしても治らなかった。
ユヅキはそのことに対して何も言わなかった。ただ優しく愛撫し合って口づけをして終わるだけの行為。動物的快楽で果てて結末を迎えることがない、まるでままごとのような性行為に何か不満を漏らしたり、呆れたような表情も、嫌な態度も見せなかった。ただの一度も。ぼくは満足に機能しない自分を惨めとは思わなかったけれど、ユヅキを不憫に思うことは幾度もあった。二十代の女なら、それなりに激しい悦びに身を浸したいはずだった。でも彼女の様子からすると、ぼくとただ抱き合っているだけでも幸福感を覚えているように見えた。
ユヅキといると、ぼくはいつも穏やかな心でいられた。
一度だけ、ぼくは彼女に声を荒げたことがある。それは仕事中のことだった。当然職場では二人のことは内緒だったし、勤務中はユヅキはぼくに敬語を使い、ぼくもまるで子供か妹と接するような態度をとっていた。それぞれが別の担当を持つ営業でもあるから、仕事上、お互い複雑に干渉し合うこともない。しかし稀に、複数の営業マンたちで一つの仕事を遂行する局面もあり、例えばそれが長男店長が指揮を執る仕事だったりすると、一同ピリついたムードになることがある。直接売り上げに関わらないような仕事であっても、何せ目の敵にされているぼくだ。理不尽な詰められ方をすることが増えていた頃だった。
その日も、グループでミーティングしている場で攻め立てられたぼくは、イラついていた。ミーティングの後、
「店長には、私が後でフォローしておきます」
ユヅキはぼくにだけ聞こえる声でそっと耳打ちした。他の皆には明らかに聞こえない声のトーンであったが、きちんと敬語で伝えたユヅキのことをぼくは「本当に良く出来た娘だ」と心の底から思った。だが彼女に対して放った言葉は、そんな気持ちとは真逆のものだった。
「そんなことせんでええ。おれが一人で何とかする‼」
厳しい表情で言い放った。大きな声ではなかったものの、社長や息子店長二人と同じく、恐怖に支配された人間の、バランスを失った感情を含んでいた。
ユヅキはとても悲しそうな目でぼくをじっと見ていた。ぼくはすぐに後悔したが、結局一言も詫びることはなかった。けれどそれ以後、少なくとも彼女の前では自分をコントロールするよう努めるようになった。それまでのぼくは、新人が入ると社長たちと同じく、恐怖に支配され相手を貶めることで自分の存在価値を確認するかのような、傍若無人な振る舞いを、若い彼らに対してやってきていたが、その虚しさをようやく知るのだった。
十二月にぼくらは、城之崎へ一泊二日の旅に出た。公休日をうまく調整し合って日取りを決めた。当然、会社は稼働しており、違う店舗に勤務しているとは言え、二人が同じ日に休みを取っていることが目立たないようなタイミングを選んだ。ぼくは仕事の段取りをきちんと整えてその日を迎えたが案の定、店からの着信が度々入った。どれも本当に些細な内容ばかりで、出社している者が台帳やぼくの残したメモを辿れば簡単に済むことばかりで、わざわざ電話で質問などしてこなくても解決するはずだった。かけてくるのは女の子の従業員で、本人はぼくが休みだと分かっているから、申し訳ない気持ちで一杯なのが声から伝わる。十中八九、社長の指示だった。
「あいつに電話して聞くのが早い」
とまくしたてられながら、嫌々ぼくの携帯を鳴らしている様子が目に浮かぶ。呑気に連休なんか取りやがって、というのが社長の考えだった。
電話を無視すると今度は、社長自らドスの利いた声でかけてくるのが予想されるので、放っておくわけにもいかず、夕方まではチャンバラよろしく電話攻勢に耐えた。晴れた空の下、携帯で店の者に指示をしているぼくにユヅキは「はい」と声に出さない言葉で冷えた缶ビールを渡してくれた。さっと周辺の店で買ってきてきれたようだ。ぼくはその行為と笑顔に癒された。大晦日までは雪の降る確率の低い城之崎は、冷たい空気よりも良く晴れた空に浮かぶ太陽の温度が勝る、気持ちの良い天候だった。その心地よさと電話攻撃のギャップに、ぼくは心が折れそうになるがそのたびに、ユヅキの存在がぼくを元通りにしれくれた。
日が沈む前にぼくらは宿へ戻り、まったりとした時間を過ごした。本当はもっと歩いて回っていろいろなものを見て、食べて、湯を巡ったりするのがカップルの過ごし方だろう、この城之崎という異世界のような観光地では。本当は彼女もそういうことを望んでいたのかもしれないが、普段から疲れ切っているぼくのために、さっさと宿へ戻りのんびりすることに賛同してくれた。
宿の近くの酒屋でぼくらは缶ビールと甘いお酒を買っておいた。そろそろ携帯が鳴ることのない時間帯に入っているし、酒屋のおばちゃんとの会話を楽しめるくらい、ぼくの気分は軽くなっていた。
「またおばちゃんに会いに来るね。今度は彼女置いて一人で来るから!」
そんなどうしようもない冗談にも
「もう~、あたしも連れてきなさいっ」
と言って、ユヅキは調子を合わせてくれる。
それから、夕方の早い時間に旅館の大浴場を楽しんだ。暖房の利いた部屋へ戻り、ぼくらはそこでカニ尽くしの料理の品々を食べ、買い込んだお酒を呑みながらゆっくりと夜の時間を味わった。全てが完璧に満たされていて、記憶の中で永遠に刻まれるであろう時間だった。
真夜中になると、ピークのない愛の行為にふけった。しばらく余韻の時間が流れ、ユヅキが眠りについたようだったので、ぼくは窓際のソファに座るとカーテンを少し開いた。
月明かりが、布団からはみ出たユヅキの手足や、盛り上がった掛布団のラインを浮かび上がらせた。ぼくは、テーブルに無造作に置いていた手のひらサイズのスケッチブックに、そのユヅキの姿を描いた。ぼくの右手は、まるでアダージョを指揮するような落ち着いた動作で、クロッキーペンを滑らせた。
翌朝早く、もう一度大浴場へ浸かり、部屋で朝食を済ませた。帰り支度をして二人でなんとなくまどろんだ。この日は、会社は定休日だったので携帯が鳴る心配のない日だったが、楽しかった旅行が終わりを告げる日だ。何となくユヅキは元気がなかった。明日も明後日も会えるのに。
「ちょっとそのままじっとしてて。ユヅキを描くから」
そう言ってぼくは窓際のソファにユヅキを座らせ、自分は畳の上に胡坐をかいた。これまでぼくが描いてきた女たちのクロッキーは、何かしらのポーズや体のラインがメインだった。しっかり顔を描くことがなかった。付き合いだして半年以上過ぎたユヅキでさえも。線を描く、ということに喜びを見出していたのだが、ぼくは不意にユヅキの存在を、それまでの女と違い、顔の表情と一緒に描いてみたくなった。そしてそれを見せて喜んでもらいたいという衝動に駆られたのだった。
小さなスケッチブックを左手で抱え、右手で鉛筆を持った。その二つの道具を視界に入れたままユヅキを見つめる。
「描いている紙を見るな、描く対象だけを見ろ」
小学五年生の時、図工に熱心だった担任から教わったことだった。その後の授業では二度と登場しなかった、一回きりの教えをぼくはずっと心に刻んでいた。今現在、ぼくが行う絵画教室でも時折生徒たちにこのことを伝える。でもぼくがこの言葉を、自由な意思でふわっと受け取って自然に飲み下して体内に取り込んだように、そういう大事な教えは、生徒たちに叩き込むようにして伝えないことを心掛けている。ぼく自身が大事にしているもの、してきたものは大半、意識せず、知らず知らずに所持しているものだからだ。
ユヅキの顔立ち、首筋のライン、髪の盛り上がり、唇の厚み。ぼくは、あちこちに目まぐるしく視線を行きかわせながら完成へ近づけていく。何かの装置を拵えるとき、ネジを締める作業を、一から終わりまで順番にやっていくのではなく、左右、上下とそれぞれの力が均等に加わるように、あちこち整えながら締めていく。突出した力が支配しないように。絵を描く行為はそれに似ていた。ぼくは思うのだ。描く人間がモデルの眉、瞳、鼻、口、そのどれもが表面的な美しさと実用性の間に、何かしらの差異を見出してはいけない。すべて平等にその人の体に存在している。
今、ぼくの視界にはユヅキと、ぼくが描いている紙と鉛筆が存在する。映画のスクリーンの中に切り取られたかのように、絶えずそこにあった。少し目を動かすだけでモデルか絵のどちらかに、すぐにでも焦点を合わせられる。ほとんどはユヅキの、少しずつ戸惑いを脱ぎ捨てていく表情に向けていたが、時々は絵の方に焦点を合わせて、その出来具合を確認する。
これまで描いた相手と違い、ユヅキはとてもリラックスしているようだった。最初こそ緊張感が伝わったが、それも数分で変化した。心地よさそうな雰囲気だった。
「もうすぐ終わるから、もうちょっとじっとしてて」
ぼくはそう言うと、ユヅキから長く視線を外して、絵そのものの調整に入った。ぼくが、モデルを注視することから離れたその様子を受けてユヅキは、テーブルの上のバッグに手を伸ばし、素早く自分の携帯を取り出した。
そしてぼくがまた、ユヅキにじっと視線を向け始めたところで、彼女は携帯をぼくの方に向けた。
パシャリ、と音がした。ユヅキはぼくを写メに収めたようで、ぼくと携帯の画面を見比べて、ちょっとニヤリと笑った。
「何しとんねん」
とぼくは手を止めずに軽く表情を緩めた。部屋を包んでいた独特の空気が一気にやわらかいものになり、絵は仕上がった。それは、線を主体に描くクロッキーと、陰影でモチーフを浮かび上がらせるデッサンとの中間にある、中途半端な絵だった。美術の素養のある者なら、鼻で笑うようなお粗末な代物だったろう。けれどユヅキは、喜びと感動で目をクリクリさせながら、こぼれるくらいいっぱいの笑顔でその絵を見た。
「わあ! 素敵‼ なあ、これもらっていい?」
「うん。それよりさっき…なに写メ撮ってんねん!」
と冗談めかして言うと、ユヅキは自分の携帯を開いてぼくの方へ寄越した。
ぼくはその写メを見てはっとした。そこにあったのは予想通り、「スケッチブックを抱えて絵を描くぼくが、こちらを見ている」という構図で撮られた写メだった。いわばユヅキの見ていた目線だ。何の問題もない。心霊写真よろしく得体の知れないものが映り込んでいるわけではなかった。
ぼくがびっくりしたのは、そこに映るぼく自身の顔つきだった。モデルのユヅキが見ていた、絵を描くぼくの顔。
「…なあ、おれ、絵ぇ描いてる時、こんな顔してたの?」
「うん、そうやで。めっちゃええ顔してた」
ぼくに言わせればそれは、全く別人の顔だった。鏡で見る自分、社員旅行で撮った集合写真の自分、呑み会でふざけて誰かが撮った写メの自分。そのどれもが年相応に変化していく、どこにでもいるような男の顔だった。少なくともぼく自身はそう感じていた。階段を一段ずつ、飛ばすことなく下に降りるように、誰の目にも自然な変化で、仕事のストレスや常識の泥に少しずつ浸食されていった顔に見えていた、いつもの顔、のはずだった。笑顔はどこか強張り、黙っていても眉間にシワが刻まれ、口元は何か言いたいことを封じ込めるかのように固い筋肉で閉ざされていた。ぼくがいつも写真で見る、自分の顔の記憶だ。
しかし今目にしている、写メの中のぼくの顔は、情熱に満ち、爛々と光る眼をしてこちらを見ていた。余裕のある口元は無理に顎を引き締めることなく、大らかな雰囲気を醸し出していた。
これが、絵を描いている時のおれの顔か。
ユヅキが撮った写メは、ぼくのその後の人生を大きく変えることになった。
cut2 人妻
ユヅキと穏やかな年末年始を過ごした後、また普段通りの激務の日々が始まった。相変わらずぼくの性的な能力は停止したままだったが、ノルマに追われ見込み客を必死で追い求める毎日の前では、そんなことは取るに足らないもののように思えた。
ぼくはユヅキの撮ってくれた写メの影響もあって、もう少しちゃんと絵を描こうと、絵画教室へ通い始めた。生まれて初めての絵画教室だった。子供の頃から一番好きだった絵を描くという行為はそれまで、ひたすらに独学であり、一人っ子で内気なぼくには絵画教室というコミュニティーへ参加するなど想像すらしたことがなかった。
「教わる」という堅苦しい部類に値する分野はぼくにとって、学校での面白くもなんともない勉強のことを指すものだった。絵を描くことはただただ自分の心を癒すための時間だったから、習うものという認識は一切なかったのだ。
ただ好きなものを好きに描く。ぼくにとって絵を描く行為は、襟を正したり改めて気合を入れて取り組むようなものではなかった。食べることや眠ることと同じように自然な行為だった。だからこそ、一度基本的なことを学んでみようと思った。ただ単純に、もっと上手くなりたい、もっといろんな物を描きたいという切望が芽生え、叶えようとしていた。
仕事、ユヅキ、絵画教室。ぼくは無意識に心のバランスを取ろうとしていたのだろう。
仕事へのモチベーションは日に日に下がって行っていた。それはつまり売り上げという目に見える数字に表れていくことを意味していた。
「どうした? 近頃調子良くないぞ」
などという優しい言葉をかけてくれるような人間は会社にはおらず、数字が下がれば社長が罵声を浴びせ、ここぞとばかりに息子たちは足を引っ張る。ただそういう現実が待っているだけだった。野生の平原で死にかけの動物にウジがたかり、蠅が寄ってくるように、あとは死を待つのみといった状態によく似ていた。どんな一日になるか想像が湧き、毎朝目覚めると激しい動悸がした。
ユヅキはかけがえのない存在であったが、同じ会社のいち営業職である彼女は、常にぼくの思い出したくない連中の存在を浮かび上がらせた。ユヅキは賢く、仕事もできた。人間関係もうまく立ち回れた。それがぼくに劣等感を少しずつ持たせていった。城之崎でのいみじくも美しい記憶は日に日に遠のいていくのだった。
絵画教室は月に三回あり、二時間をそこで絵を描くことだけに集中するのは、ぼくにとって必要不可欠なものとなった。大人ばかりの教室で、みんな仕事や家庭と離れたところで自分の時間を楽しむ。そこでは肩書や目に見えない実績など無意味だった。
先生はぼくより一回り以上年上の画家で、現代アーティストと呼ばれる人物だった。海外の美術館の常設展示室に彼の作品が展示されているそうだ。奇抜なタッチの絵を、油絵を使って描く画家で、彼に長年教わっている年輩のご婦人は、ある日ぼくの目の前でこんな質問をした。
「先生、普通の絵、描けるんですか?」
先生からすると、母親に近い年齢のご婦人からの、ちょっとイタズラな質問にたじろぐことなくうっすら笑みを浮かべ、持っていたスケッチブックに、その日の課題であった花瓶の薔薇を、流麗な線でいともたやすく写実的に描き上げてみせた。
絵はそこそこ器用に描けたものの、当然素人だったぼくも、まるでピカソの亜流のような絵ばかり生み出すこの先生のことを、
「ちゃんとした絵なんか描けるんかいな」
と先のご婦人と同じくいぶかしく見ていたので、簡素でありながら感情的な曲線で捉えられた「花瓶の薔薇」を見て嘆息を漏らし、こっそり心で考えていたことを恥じた。やはり、基本的な技術の存在が、独自の作品というものを強靭にする。それをこの時に教わった。
昔からある老舗の画材屋の三階で、絵画教室は開講されていた。三十人は裕に収容できる広大なスペースで、二十人程度の生徒がいつも参加していた。大抵は五十代以上の主婦が多く、数名ずつの仲の良い人たちでワイワイ言いながら絵を描くような状況だったが、みんな結構上手だった。ぼくはそこでデッサンの基礎や絵具の使い方、透明水彩・不透明水彩の使い分け方など、応用の利くテクニックを学んだ。
これまで絵は、努力して技術を磨いていくといった種類のものではないと思ってきた。描いて描いて描きまくれば、勝手に上達していくものだとばかり思っていた。しかし、花には花の描き方、鳥には鳥の描き方というものがあり、様々な知識を学ぶことで確実にぼくは絵の腕を上げていった。芸術は立派な学問であり、競技であると知った。
この頃使っていたスケッチブックを開いて見ると、今ではとても見れたものではなかったが、そんなことより描くのが楽しくて仕方がなかった。覚えたことを何度も何度も実践して、その真髄に近づこうとした。
ぼくは少しずつ、ユヅキと会うのを避けるようになっていった。
人妻と付き合うようになった。
彼女は絵画教室の生徒で、ぼくより半年前に入会していた。年輩の人々の多い中、ぼくと彼女だけが三十代の生徒だった。中学、高校と卓球一筋で来た彼女は当初、文字通りデッサンのデの字も知らないということだったが、入会したばかりのぼくからすると、それなりに筋の良い描きっぷりに見えた。小柄だったが、かつてラケットを構えて競技の場で汗を流していたせいもあって、鉛筆を握ってイーゼルに向かう姿は、どこか迫力と言うか力強いオーラを放っていた。
ぼくは人妻を見て一瞬で「描きたい」と思った。
年代が同じということもあり、ぼくらは少し打ち解けるようになり、それぞれの身の上も話した。ぼくの勤務する会社のことを知ると、ちょうど手に入れたい商品がある、ということで、彼女はぼくの客として店へやってくることになった。
人妻は、旦那と二人で高額の商品を買い求めに来た。ぼくが商品について説明している間、話を聞いているのかいないのかよく分からないぼんやりした態度の旦那を見て、「なんでこんなボンクラがこんな良い奥さんと?」と心底いぶかしく、意地悪く思った。
商品を契約し、二人が去ったのを確かめると、たまたま本店にやって来ていた次男店長が一言いった。
「あれは、金やな。金でなびいとる。あんなべっぴんとあのオッサンとでは釣り合わん」
ぼくは、さっき自分が抱いていた意地悪い考えのことは忘れて、次男店長の言い草を薄気味悪く感じた。
人妻と初めて寝たのは真っ昼間のラブホテルだった。悲しいことに、ぼくは一年半ぶりに男性の機能を無事に果たした。それも二時間のうちに三度もだ。
ユヅキのことを思うと悲しいことだったが、それにも増して喜びの方が大きかった。
ぼくと人妻はありとあらゆる時間、場所で性交した。旦那が勤務している時間に社用車で人妻のマンションへ訪れ、幼い娘が眠っている間にもした。「コンビニ行ってくる」と旦那に告げて夜遅く家を出たところで落ち合った車の中、平日のビジネスホテル、時には娘を寝かせた車の中ででもだ。
ぼくは堰を切ったように行為を楽しんだ。どんなに仕事でコテンパンな気分を味わわされても、快楽に溺れることで生きていることを実感できた。
ユヅキとは疎遠にはなっていたが、別れてはいなかった。男性の機能を取り戻したのだから、ユヅキと会い、これまでを取り返すように喜びを与えるべきだったかもしれない。しかしぼくの、ユヅキに対する心は完全に冷え切っており、うまく行為を果たせる自信もなかった。
ぼくと人妻は愛欲に溺れていくうちに、互いに新しい生活を夢見るようになっていった。つまり、彼女が旦那と別れ、ぼくと一緒になる、という計画だ。
ユヅキにはちゃんと別れを切り出さねばならない。そう思ったが、まさか「人妻とのセックスが良すぎてお前と別れたい」などと言えるわけもなく、ぼくはひどい言い訳をした。
「オカンが病気でな。ついててあげたいねん、今は。だから別れたい」
ちょうどこの頃、母親が手術をしたのは本当で、命に関わるような大病だったのは事実だった。けれど術後の経過も良く、順調だった。ぼくは相手に有無を言わさないために、ユヅキの優しい性格につけ込んで、母親の病を利用した。それはとても卑劣なことだった。
夜遅く、ぼくらは車の中で前をむいたまま、何かを見つめるふりをしながら話した。
ユヅキは泣いた。肩を震わせて泣いた。ユヅキには何の欠点もない。なのにどうしてぼくの心はこんなふうに痛みを感じることなく、あっさりと彼女を傷つけられるのだろう。
ぼくは心のどこかでユヅキに、「お願いだから、これを嘘だと見抜いていてくれ」と願っていた。ぼくは体調のすぐれない母親のために、女と別れるような男ではないということを。もっと傲慢な男であると。
数日後、会社の後輩男子がユヅキの書いたミクシィのブログについて教えてくれた。彼はぼくらの交際について何も知らなかったが、世間話のひとつとしてそのことを話題にしたに過ぎなかった。
「あの子、ミクシィやってたんや。知らんかった」
ぼくは本当のことを言った。
「なんか、すごくネガティブなこと書いてて…。付き合っていた人のお母さんが病気で、大変で、それで別れたけれど、力になってあげられないことが辛い、みたいなこと書いてました」
勤務中の夜、後輩男子を助手席に乗せている時、その話を聞いた。ぼくはその夜の車の中、遠いどこかにいる他人の話を聞かされているかのような顔をしながら、曲がったカーブ、町の景色を今でも忘れられない。どう感じたか、よりもその時の光景だけが胸に焼き付いていた。
cut3 ぼくが所有するものを全力で使っていくしかない
人妻との関係はその後三年近く続くことになる。しかし普通の恋人同士のように気兼ねなく交際できるわけではないから、実際に会い、メールをし合った時間を換算してぎゅっと集めるとどれくらいになるのだろうか。
限られた時間での愛の証として、互いの肉体を貪るようにしてベッド(あるいはどこかに停めた車のシート、トイレ)へなだれ込む。祝日やクリスマスといった特別な日には、絶対に会うことができないという後ろめたさは、ぼくと人妻の情熱と欲望に、より拍車をかけた。
この不倫と同時進行で、ぼくは会社を辞める計画を実行に移すことを考えていた。
入社する時に決めていたことが二つあった。
「この仕事が天職であれば、または天職に高めることができれば、一生続ける」
ということともう一つが、
「やりたい何かを見つけるまではこの仕事を辞めない」
ということだった。特にこの後者の方がぼくには重要であった。
ユヅキと別れた後、会社での立ち位置の悪さはより激化し、感情だけで言うと今日その日にも辞めたかった。毎日そう感じていた。けれど「会社が嫌だから辞める」という選択肢はぼくにはなかった。もともとの決意に、それは反することだった。
ぼくはまず、毎月十万円以上の貯金を始めた。詐欺に遭った時に負った借金はとっくに返し終わっていたが、大した目的もないまま日常を過ごしてきたので、口座にはそれほど金はなかった。現時点で「やりたい何か」が見つかっていなかったが、それが見つかった時に必要なのはやはり金だろうと思った。
百万円近く金が貯まった辺りで、それまでの日々のいろんなパーツが、予期せぬタイミングで一つに組み合わさった。ぼく自身には知らされないまま、まるで最初から定められていたかのように、音にならないような音を立てて、気持ちよく合わさった気がした。
画家になる。
それは迷いなく降りてきた決意であった。
ユヅキの写メで知らされた、ぼくの本当の顔、様々な女性を描くことで知った表現する喜び、現代美術家の運営する絵画教室での時間、人妻の娘と関わり始めて知った、子供という生き物との時間、それらは表面的なメッセージではあったが、そこには明らかにぼくの行動原理という暖炉にくべる薪に相応しい力があった。
ぼくは絵を描くことでぼく自身を救うことができた。これは何物にも代えがたい発見だった。
子供の頃から好きだった絵。なぜ今さら、三十代半ばになって? こう思われるかもしれない。
ぼくは変化を望むあまり、この、無我夢中にさせるものを手放したのだった。
物心ついた時、ぼくは一心不乱に絵を描いていた。
新聞の折込チラシの裏がぼくのキャンバス。そこにボールペンで描く事を好んだ。消しゴムで消せないボールペンは、失敗することなど最初から微塵も「前提にしていない」無垢な画材である。
TVアニメ、漫画、生き物、映画スター、ありとあらゆるモチーフを描いて描いて描きまくった。そこから派生する音楽(たとえば何かのテーマ曲)や、本への興味を、両親は寛大に受け止め、一人っ子のぼくに色々なものを買い与えてくれた。それらは全て描くための素材となった。
水と太陽で成長する植物のように、ありとあらゆるカルチャーや目にする光景を得て、ぼくは絵を描く行為を進化させていった。そこには上手く描いてやろうとか、技術を見せようとか、そんな卑しい思惑はなかった。ただ興味のあるものをこの手で捉えようと、受け止めようと願う愛情であった。
しかしこの期間というのはあくまで、ぼく一人の手によって育まれる限定された世界でしかなかった。たとえそれが実は、無限の広がりを持った世界であったとしても、ほとんど人の目に触れることはなく、いずれ誰かのために開くことが望まれていた世界だったと思う。それを認識するためには、一定の期間、手放す必要があったのだろう。
アートがぼくの体の一部であることを認識するための試練の始まりだった。
兄弟もなく、地域の行事にも参加せず、ぼくは幼稚園から小学校へと上がり、そこで他者との関りを持つことを余儀なくされた。
幼稚園はなぜか住んでいる地域から離れたところへ通った。スクールバスが送迎し、そこで仲良しになった子たちは、実は僕の町から遠く離れている地域に住んでいたため、卒園後二度と会えない子たちだと知る。
そのおかげで、小学校へ入るとぼくは、完全に孤立無援だった。他のみんなは幼稚園から知っている者同士だったり、近隣での遊び仲間だったりしており、未就学時代から小学生へと地続きで関わる者たちだった。だから、彼らからすると、小学校で突如現れたぼくはまるで異物であり、また男子らしからぬサラサラの長髪や、見るからに大人しそうな態度は、奇異の目で見るに相応しい存在だった。
そんな状況を、みんなを笑わすことや絵を描く事で潜り抜け、独自のポジションを確立したまま、エスカレーター式に進んだ中学校でも、「楽しいお調子者」「人気者」として過ごした。屈託なく振る舞い、恐れなどなかった。
しかし、高校生になると自意識というものが芽生えだした。
女の子にモテたい、とごく自然に健康的な男子が望む思いだ。
当時、女子にモテる条件は、勉強できる者、足が速かったりスポーツができる者、ちょっとヤンチャな者。今でこそ絵が描けることは花形としてのステータスがあるが、ぼくの学生の頃はどちらかというと「ネクラ」とか「オタク」といった、マイナスのイメージがあった。ぼくは、そういう外的圧力にあっさりと負けた。
絵を描くことをやめた。
やめた・手放した、ならまだしも、粗末に扱うようになった、と言える。ぼくは、絵を描く自分を「ダサい」「モテない」と否定した。かといって急に自分を変えることなどできず、イケてる高校デビューを果たそうと入部した運動部もひと月と続かず、自分を変えたいという願いを抱きつつも性根は切り捨てられないという現実を実感し、結局どっちつかずなまま、ただ息を潜めて三年間を過ごした。中学生の頃みたいに、絵を描いたり、面白いことを考えて実行しようとすると、おかしなやつだと女の子たちに思われる。だから目立たないように、大人しく過ごした。
軽音楽部でバンドを組み、文化祭で体育館のステージに立つ連中を羨望の眼差しで眺め、女子と楽しく会話する連中を尻目に、読書や映画鑑賞に没頭した。深く深く潜っていった。授業が終わると早々に帰宅し、クラスの誰にも打ち明けずにギターを練習した。大学に行ったらバンドを組んで、「イケてるおれ」になろうと決意していた。
地味なことなど捨てて、別人になるのだ。
そうやって常に煌びやかなものに憧れ、別人になろうとあがいて来た。しかし何者にもなれなかったし、そもそも「何者になりたいか」という自らへの問いかけすらなかったのだろう。
ようやく「何者になりたいか」「どうしたいか」という明確な意思を持った時、ぼくの心に思い出された光景がある。
それは中学の時の教室。みんなが静かに授業を受けている中、「みんな退屈そうにしているなあ」と感じていたぼくは、いつものようにノートの切れ端に落書きを始める。先生を面白おかしく描いた似顔絵だ。面白く描いてはいるものの、ちゃんと本人に似ていた。似せて描いているからこそ、ちょっと馬鹿にした描き方がより笑えるものになるのだ。
ぼくはそれを後ろの子にそっと渡す。それを見て、吹き出すのを必死でこらえている雰囲気を背中で感じながら。
その絵が順々にまわっていく。後ろ、その隣り、といった具合に。そのたびに笑いをこらえる者や笑顔になる者、空気が緩んでいくその伝播を感じ取るのがとても痛快だった。そんな大切な「絵を描く」ということを、その後の思春期の突入を機に、手放してしまったのだった。
そしてようやく、三十半ばにしてぼくは再び自由に絵を描き、それを誰かに見せることで心を平穏にさせることができると知った。本当はもっと前に知っていたのだろう。ただそれをしっかり認識するまでに長い年数を必要とした。
ぼくにとってのアートは、そういう存在だった。誰か別の人にとっては、それは野球かも知れない、カラオケかも知れない。何だっていい。
こうやってぼくのように「心から愛せるもの」を手にできたら、そんな人間を一人でも多く増やしていったら、いずれ世界は変わるんではないかと本気で思うようになった。それほどまでにぼくには大きな発見だった。
「心から愛せるもの」
「自らを癒せるもの」
ぼくのように、強くそう信じる何かを手にすることで、下を向いたり何かに怯えたりすることなく、自分の存在を価値あるものとして受け入れることは、きっと誰にでも可能なはずだ。周囲の言葉や目を気にしたりしなければ、そう難しいことではない。以前のぼくのように迷い、か弱い人がいたとして、たった一人の誰かの存在が、ぽんと背中を押すこともできるだろう。そうやって変わっていく人が一人、また一人、小さな波が連なって巨大なうねりに成長していくように、世界そのものに変化を与えることができるのではないか。
あわよくば、百年後に起こるはずだった戦争の一つくらいは消せるのではないかと本気で考えるようになった。
ぼくは画家になって自分の作品を世に生み出すことと同時に、絵画教室という場を使って「自らを癒す」という作業を、子供とか大人とか関係なく体感してほしいと思うようになった。
「ぼくの愛するもの」を使ってそれぞれの「自分の愛するもの」を誰か一人でも見つけることができたら、その人も別の誰かに同じことができるはず、と。
営業マンになり、パワハラの洗礼を浴びた時に知り得たこと、
「人は自分のされたことを他人にする」
の、良いエネルギーに変換したバージョンというわけだ。
ぼくは絵画教室を自分の手でスタートさせるため、何軒かの絵画教室を見学させてもらい、ぼくはこの自分の目的を改めて発見することができた。様々な先生が様々な場所、人数で絵の教室を開いていた。公民館や市民センターで場所を借りて開く年配の女性や、親子二代に渡って自宅で開講する画家の男性もいた。
「脱サラして絵画教室するの? 簡単そうに思って自分も出来る、って思ったんでしょ?見ての通り、大変だよぉ」
そういう嫌味を言ってくる先生もいたが、そもそも、この先生もぼくも理想とするもの、目指すものが違うことがはっきりと確認できただけであり、腹も立たなかった。
「絵の先生なんて誰でもできる、と思っている不遜なやつが乗り込んできた」
くらいに思われたところで、ぼくの意思や未来を遮るわけではないし、とにかくなんだかんだ言いつつ、その人も手の内を明かし、見学させてくれたわけだから、
「いやあ、ほんと、子供たちも賑やかでまとめるの、大変そうですね!」
と涼やかに受け流した。こうして教室へ入れて見せてくれたことは、それは有難いことだったし、やはりアートを創る人は優しい人たちだと心から思った。
そしてそんな先生たちのおかげで、ぼくは自分のやり方を見つけることができた。結局、人のやり方など見ても参考にならないというが分かった。みんな、思い思いの理念があり、個性も異なる。どれも真似ようがないのだ。
当初、ぼくはこんなことを本気で考えた。
体重を増やし、子供たちに安心感を与える絵の先生になろう、と。
何だったら髭も伸ばし、サンタのおじさんよろしく、生物的に安心感をもたらすようなルックスに改造しようかと考えたのだ。実際のぼくは中肉中背、よく陽に灼けており、そもそも「絵を描いている」というイメージを持たれない。教育番組に出てくるような、愛らしい動物的な容姿に作り換えるべきではないかと思ったが、もう別人になろうとするのはやめた。たくさんの絵画教室の先生に会ううち、その人たちの持っているものを羨ましがっても仕方がないと感じた。ぼくは、ぼくが所有するものを全力で使っていくしかないのだ。
cut4 「いつか自分のオリジナルの作品で感動させるんだ」
夢よ再び 絵画講師に
絵画教室開講へ
子どもの頃、絵が得意だったという七瀬員也さん(三十六)が創作に再挑戦し九月、絵画教室を開く。二年間画家の指導を受けデッサンなどの基礎を学び直し、四月にはアトリエ付きの自宅を新築。満を持しての再出発だ。
このような書き出しで始まる記事は五段に渡り、アトリエ室内で笑顔を浮かべるぼくの写真とともに地方紙の地域欄に掲載された。退職する直前のことだった。
ぼくは会社を辞める前に、家を建てることを決意したのだった。自分の作品を制作し、教室を開けるアトリエのある家を。
サラリーマンである今なら、何とかローンを組める。そういう打算もあった。また、人妻には旦那と別れて子供と一緒にぼくと結婚する意志があり、着々と思惑が進んでいた。
ぼくは三年近く貯めてきた金を頭金にして家を建てた。作品を生み、絵を描くことが好きな人を守り、育てるための家だ。
着々とことを進め、家が建つと同時に会社を辞めた。このように地元の新聞にも「脱サラして絵画教室を開く男性」として取材を受け、記事に取り上げられた。幸先の良いスタートだった。
以下に続く記事の内容は、絵画教室を開くに至るこれまでの経緯と、体験教室への参加募集についてだった。都会ではどうだかわからないが、地方では新聞に載ることはかなり人々の信頼を勝ち得ることになり、問い合わせと体験教室参加希望の電話は殺到した。
さて、この新聞記事であるが、取材を受けたのは二〇一二年七月。知人の伝手で記者を紹介してもらい、「脱サラした男性による絵画教室開講」という耳目を引く内容から大々的に書いてもらえることとなり、ぼくは喜んで取材に臨んだ。
しかし、である。実はまだこの、取材を受けた時点で辞職することを恫喝社長に伝えていなかった。
社内の誰にも知られないように着工した新築の家は、その年の四月に完成し、ひっそりと教室のWEBサイトも立ち上げ、教室名も「ナナイロキッズアート」と決まった(これはきちんとした姓名判断の先生に名付けてもらったものだった)。
そこまで揃い、あとは集客をどうするかというところでチラシを千部作って、営業のついでにポスティングをしたり、仲良くしていた顧客にだけこっそり告知している段階だった。
地方紙の取材はまさに渡りに船だったが、恫喝社長に辞意を伝えていないことが心に重くのしかかっていた。ぼくはびびっていたのだった。
八月いっぱいで会社を辞め、絵画教室を九月からオープンさせるつもりだった。すでに新聞記者にもその内容で語っている。退職する際、ひと月以上前に届を出すのが常識だから、決定しているこの決意をさっさと言うべきだったが、ぼくはこの頃には、口を開けば怒鳴られる、何か意思を伝えれば大声で否定される、といった条件反射に慣れていて、パブロフの犬よろしく恫喝社長とコミュニケーションを取ることに怯え切っていた。
「別のことをやりたいと思いまして、退職をします」
蚊の泣くような弱々しい声でなんとかそのことを伝えたのが、新聞記事が出る前日だった。
記事になることを喜び勇んだものの、これが恫喝社長の目に、どうか触れないでほしいと願っていた。この時はまだ、まさか五段に渡って大々的に取り上げられるとは思っていなかった。
確か恫喝社長が自宅で取っているのはこの地方紙だったと思うが、何かのはずみで見逃していてくれ、と微かな期待を寄せつつその朝出社すると、ぼくの載った記事がコピーされて、各社員の机の上に置いてあった。恫喝社長はよくこのようにして、仕事に関する記事やFAXなどを皆に無言で配布した。特に何も語らないまま。
恫喝社長は「おはよう」とぼくとあいさつを交したきり、言葉を発することなく自分の机で書類に目を通していたが、どういう気持ちだったのか測りかねた。
記事にはしっかりと「新築をアトリエに」とか「プロミュージシャンを目指した時期があった」とか、社長には一切語ったことのなかったことまで書いてあり、部下に対するある種の寂しさみたいなものを、彼に覚えさせたのかもしれなかった。もしかするともっと単純に「わしを出し抜きやがった」という思いかもしれないが、いずれにせよ、感情のコンディションが計り知れない無言は不気味であり、ぼくを恐怖させた。
最後の最後まで恐怖に委縮したまま、この会社での八年に渡る日々を終えた。
この新聞記事が出るまでに、ぼくと人妻の関係は終わることになる。
一軒家が完成した後、家具やアトリエで使用する机などを人妻と選んだ。今現在ではすっかり入れ替わってしまったそれらは、人妻とその娘がこの家で共に住むという、結局は果たせなかった未来を想定して選んだものだった。
会社を辞める直前には、人妻の幼い娘とその友達数名を集めて、新築のアトリエで絵を教えたりもした。ぼく自身の絵画講師としてのトレーニングも兼ねた実質、一期生だった。初期のWEBサイトには人妻の娘の写真をトップ画面として使用していて、ぼくと人妻はこの頃、とても大胆不敵な行動を取っていた。
あらゆる面において、ぼくと人妻は順調に見えた。しかし夏が始まると同時にその関係は終わった。
たぶん、一つの大きな目的に向かう道程で、ぼくの中の何かがゆっくり大きく変化し、その変化を受けた人妻もまた、変わっていったのだろう。発する空気、些細な場面での言動、互いのいろいろな何かが少しずつの目盛りで違え合うことで、大きくずれていったようだ。
このようにして、二人とも夏にはすっかり別人になっていた。
家が完成してすぐ、ぼくは大人になって初めてたくさんの人々の前に絵を展示した。まだ会社に勤めていたから、とてもハードな制作作業ではあったが、地元で開催する「トリックアート展」なるものへの二作品の出品だった。
今はあまり耳にすることのないトリックアート。
展示された絵を気軽に携帯で写メに撮ってみると、絵の中の人や物が壁から飛び出しているように見えたり、人と一緒に撮るとあたかも絵の一部に見えたりする、体感型のアートだ。
営業の仕事をするかたわら、水面下で画家としての営業活動を行っていたぼくは依頼を受けて、この企画展に出品した。つまり生まれて初めて、絵でギャラをもらったのだ。
出品した絵は二点。
ひとつはフェルメールの有名な絵画「真珠の耳飾りの少女」のパロディと、映画「リング」の貞子のパロディだった。
フェルメールの方は、黄色い衣服の少女のターバンだけが額縁から飛び出しているように見える絵。貞子の絵の方は、テレビの画面から貞子が飛び出して見える絵で、どちらもアクリル絵の具で描いた。
この「額縁から飛び出して見える絵」を描く時は、「さきほど説明した絵」、つまり中身と言える部分と「額とそれに続く壁」、外側の世界をも絵としてキャンバスに描く必要があり、特別な計算を要する。この仕事を発注してくれた企画会社との打ち合わせも楽しく、魅力的な企画だった。
「画家になる」「絵画教室をやる」という二つの目標を持ってから、いろんな展覧会に足を運び、たくさんの絵を見てたくさんの本を読んだ。そこで芽生えた想いは至極単純なものだ。
ぼくはアートを、この日本でもっと敷居の低いものにしたい。
それは未だに変わらない考えで、簡単に言うと誰でも好きなように感想が言えて、楽しめるものにしたいということだ。難しい言葉を使えないと感想はおろか、一言いっちゃいけないような、高尚なものであってはいけないと思った。また、「この絵を否定するとばかにされる」またはその逆のような風潮のない、豊かで自由な世界への変貌を心底望んだ。
トリックアート展はその想いを形にする絶好の機会だった。
写真を撮ってはいけない絵、はしゃぎまわってはいけない会場、一般的な美術館での振る舞いと真逆の楽しみ方ができる。そういう企画展だった。
もちろん静かに鑑賞し、互いに干渉し合わない静謐な空間を大切にする展覧会を否定しているわけではなく、ぼくの作品も出来れば、そういう穏やかな環境で人々に見てほしいとは思う。つまりそういう環境を敷居が高い、自分には興味がない、と感じて敬遠する人々のためには、ストレッチのような準備段階が必要で、ぼくはアートを創る側の人間たちがそういった環境づくりに力を入れるべきであると思うのだ。今でも心底そう思うし、絵画教室という場所もそのためにあると信じている。
ピカソやゴッホ、岡本太郎といった、芸術の世界に革新的な作品を残してきた偉大なる先輩のように、ぼくは早くなりたいと思う。
しかしその個人的な願いとは別に、ぼくは子供の頃からみんなを笑わせるのが好きだ。高尚な芸術、偉大な作品の何たるかを語る前にぼくは、フェルメールの描いた少女のターバンを額縁から飛び出させ、「世界の亀山」のテレビ画面から貞子を出現させた。
トリックアート展の会場はゴールデンウィークということもあり、盛大に盛り上がった。何日か会場に在廊した、名もなき画家の一人であるぼくは、生で見る来場者の人々の反応には、涙を堪えねばならないほどだった。
会場には、アニメ、映画、といった誰もが知るいろんなテーマのパロディや、額から飛び出す恐竜、遠近感を狂わせる部屋など、一目見て感動できる作品が並び、わくわくした表情で誰もが見て回り、写メを撮りあったりしていた。中でもぼくの描いた貞子の絵は「きゃあ」と声を上げたり、「怖い!」と口々に言う人だかりができたりで特に湧いていた。
それは、われながら怖く描けていた。画力に関係なく、モチーフのネームバリューに、そもそも力があるのは分かっている。それでも紛れもなくぼくが描いた絵だ。純粋に怖いと思った人も、迫力があって凄いと感じた人も、皆心の針を震わせてくれている。感動という反応だ。
「いつか自分のオリジナルの作品で感動させるんだ」
ぼくはそう誓った。
このトリックアート展の頃にはまだ、人妻とその娘が会場に来てくれて三人でワイワイ騒いだり、はた目から見ても仲の良い家族にしか映らないほどに良い時期だった。
しかしやがて、誰にも祝福されることのない恋愛関係にぼくは次第にイラ立つようになっていった。うっすらと一緒になることを話し合いつつも、子供を抱える専業主婦が離婚を実行するのはそう簡単なことではない。そう分かっていてもぼくは徐々に不安を抱くようになり、その不安を努めて人妻の前では隠した。そういう陰りは相手に伝わり、熱狂した気分を冷却させるには十分だった。
人妻は、それまで拒否し続けてきた夜の営みを旦那に許すようになった。
年収一千万円以上ある旦那と別れて、いわば全てを捨てた芸術家志望の男と一緒になる。小さな娘を連れて。ぼくが退職し家を建てることで駒を進め、現実が近寄ってくるにつれ頭が冷静になってきたのかもしれない。人妻にとって、この情愛に我が子を連れて飛び込むことは、とにかく普通に考えて自殺行為に等しい、とどこかの時点で認識したようだった。
いずれにせよ、ぼくと人妻はお互いの求めるものを完全に異にしたようで、ぼくが新しいスタートを切ったことをきっかけに呆気なく、まるで魔法が解けたようにして終わった。
cut5 ジョン・レノンを切る
ナナイロキッズアート。
ぼくの誕生日でもある九月三日を開業日として「絵画教室・絵画制作販売」を業務内容として記載し、開業届を出した。生まれて初めての起業である。
絵画教室の生徒は順調に集まりつつあった。年齢を問わず開講したが、ぼくは生まれて初めて「人に何かを教える」ということを職業にするにあたって、こんな問いを自分に投げかけた。
「もし自分が今、子供だったらどんな教室に行き、どんな先生に出会いたかっただろう」
そんなことを思いながら生徒と接する時間は想像していた以上に貴重な体験で、刺激的だった。
物心ついた時から慣れ親しんできた絵を描くということ。ぼくはもう一度原点に戻ることができ、更に絵を描くことが好きになった。また、日々いろんな生徒を相手にすることで、ぼくはぼく自身の修練をも必要としていることに気づき、学び直し、毎日多様な疑問と発見に立ち向かった。刺激的な日々だった。
そんなふうにして最初の年を終えようとしていた。
年末年始はじっくりとものを考えることに費やした。絵画教室は取り合えず動き出したが更に重要なこと、
「自分の、画家としての作品はどうするのか」
という課題に向き合うためだった。
アーティスト、芸術家、といった人種がそもそも属性を一括りにできるものではないことは認識している。その上で言わせてもらうと、世の中で活躍するアーティスト(念のため本書ではミュージシャンを意味する呼び名でないことを付け加えておく)の大抵は、美大などの学校で芸術を学び、その過程で自分の表現、すなわちオリジナルのスタイルを見出す。そして卒業し、画廊、ギャラリーと関わりを持ち、個展やグループ展などで作品の発表に至る、といった流れだろう。そのかたわら教職を持つ者は学校で教えたり、デザインの仕事を請け負ったり、アーティストとしての活動とは別に、アートから派生した業種もこなす。そんなところだ。
ぼくは異端だった。
学んできた道筋も違えばポテンシャルも違う。また目的も違い、「アーティスト、画家として作品を売る」という、点を目掛けて突く、というような目的ではなく、「アートによって救われる人間を増やす」という面で塗りつぶしていくような目的だった。
そんな大層な目的を抱えていながら、ぼくには画法というものがなかった。ちょっとした会食の席では初対面の人間に、まるで話にならないと一笑に付されたこともあった。彼のような、少しアート業界に携わったことがある者からすれば、笑い話にもならないようだった。
世の中にはいろんな画家がいる。油絵画家、水彩画家、パステル画家。主に使う道具だけに限らず、特定のテーマに即した画家もいる。猫ばかりを描く画家、女性の裸体を描く画家、風景画家、空想画家…もっと詳細に掘り下げるといくつもある。
平面の絵に限らず、「アーティスト」という大きな括りで言うと、新聞紙をくしゃくしゃにしたり丸めたりして立体作品を作る者、絵具を着けた拳や頭突きでキャンバスを埋める者、流木に鮮やかな着色してオブジェを仕上げる者、ただひたすら巨大な円を描く者、表現の種類は無限だ。どのアーティストも抑えきれない表現欲求を抱え、それを噴出させるようにして作品を生み出し、第三者の心に侵入する。
ぼくにはそういう、特定の手段がなかった。
絵が描けるじゃないか、と言われるかもしれない。確かに自由気ままに描ける。自分の憂さ晴らし程度なら問題ない。
音楽の世界に例えると、普通のフレーズを普通に卒なく奏でる者の音楽に、誰も金を払わないし感動もしない。せいぜい得られるのは、友達か家族からの「プロ級だね」という満面の笑顔と共に送られる賞賛程度だ。それくらいであればその演奏者だってきっと、何も満員のホールに立つまでもなく、自宅で一人でこなすことで、十分心満たされるだろう。
乱暴に言葉にしてしまうとそれは「金になるかならないか」ということだが、「社会につながることができるかできないか」ということがより親切な言い回しだ。それを目指すことが、ぼくには大事だった。
起業後も毎日飽きることなくデッサンの練習は続けていた。そもそも基本的な素養のないぼくには「伸びしろ」というものがふんだんにあったため、描けば描くほどデッサンは上達した。その目まぐるしい成長ぶりは、自分でもよく分かるほどで、日々ぼくを夢中にさせた。しかしその快楽によってぼくは、ある意味で、自ら進化の妨げをしているのではないかと感じるようになった。
「もっと上手くなりたい」
ということに、いつしか執着していた。リンゴを、そこにあるリンゴのごとく描けるようになり、布を、今にも風に飛ばされそうなほど柔らかく描けるようになる。技術の進歩は、ぼくをひたすら陶酔させていった。放っておけばそこに執着し続けて、一生人の目に触れない絵を描き続けることになるかもしれないほどに。誰かの心を動かす、世界の歴史を塗り替える、国家規模の観光で経済を潤わせる、などといった広大な可能性と同時に、アートには世界を狭めてしまうような危険な一面もある。
ぼくは上手くなろうとして努力と鍛練に寄りかかるあまり、世界を狭めつつあったのだ。確かに鍛え上げられた技術の上にしか成り立たない芸術もあるが、そんなたった一つの方程式しか受け入れられないような、偏狭な存在ではないところがアートの素晴らしい点だ。
また、それだけではなく概念に捉われるあまり、一歩も身動きが取れなくなるという世界線もある。
「アートは過激であるべき」
「アートは自由」
「アートは高潔でストイックに生むもの」
どれも正しいと言えるが、文言にしてそれに捉われた時点で外の世界から孤立する。少し話は逸れたが「上手くならないと」に縛られそうになったぼくは何やら危うさを感じ、年末年始に描くことを一旦手放すことにした。とにかく描く、ということは「早くオリジナルの作品を描きたい」という、不安と焦りを解消するための手段のだったのかもしれない。考える時間が必要だった。
シンプルに考えて、技術的に優れた絵を描く人は山ほどいる。油絵も水彩画も達者な画家は数多くいる。もちろん技術で競うつもりではないにしろ、ぼくが表現したいイメージを描くためにはやはりテクニックというものが不可欠である。となると、油絵、水彩画のこの二つの古典的技法を使って制作に臨むことは、ぼくの目指すものから遠ざかるように思えた。控えめに言って、ぼくの絵のレベルは、芸大や美大で学んだ人々からすると大したものではない。いくらぼくが独自の世界や感性を持っていたとしても、それらの画法を使いこなすには稚拙な腕前だった。二つの画法は最大公約数であっても、最小公倍数にはなりえない。
それに、いたって普通の絵の描き方のように思えた。ぼくという人間は根が生真面目である自覚がある。生真面目な人間がせっせと普通の技術で普通の技法を使って描いた絵など、誰が楽しめようか。
ぼくが思い出したのは、大学生の時に当時付き合っていた彼女に贈ったプレゼントのことだった。ちょっと変わった誕生日プレゼントで驚かせてやろうと考え、ある物を贈った。その頃は一切、絵を描くことから離れていた時期だっただけに、ぼくの過去を知らない彼女を驚かせるには十分だろうと思い、久しぶりに腕を振るった「ある物」。
それはジョン・レノンを描いた切り絵だった。
切り絵とは、黒い紙をカッターナイフなどで切り抜いて、白い紙などに貼り付けて絵を描き出す、あの切り絵だ。よく勘違いされるが、二つに折った紙をハサミで切り広げて見せる、「切り紙」とは少し違う。
ジョンをこよなく愛する彼女に何かグッズのような物でも贈ろう、と考えたのがきっかけだった。ちょうど時間に余裕もあり、そんなふうな物を拵えて、手をかけたプレゼントにしようと考えた。どういうプロセスでそんなことをしようと思ったのか分からないが、とても良いアイデアに思えた。
一九九六年頃だった。当時、切り絵でロックスターを描いた人間はぼくが初めてだったのではないだろうか。日本古来の建物や風景などをモチーフにした切り絵はよく目にしたし、白黒のタッチの性質上、とても限定された目的として使用されてきた画法、というイメージがある。少なくともぼくはその画法を使って、人物を描くことにしたことについて、誰かのお手本があったわけではない。今思い出しても、不思議な選択をしたと思う。それほど上出来とは言えない作品であったが、その彼女はとても驚き、喜んでくれた。
そんな昔のことを思い出したぼくは、年末年始に両親と食事をしたり、家で友人と呑んだりしながらゆっくり過ごした後、早速、切り絵のトレーニングに取り掛かることにした。
切り絵で人物画を描く。
まずは鉛筆でモデルとなる人をスケッチする。普通に絵を描くところから始めるわけだ。それからその絵を、黒い紙に合わせてマスキングテープで動かないようにし、下絵に合わせてカッターナイフで切り抜いていく。
有名人、知り合い、手当たり次第に「切り絵化」していった。ちょうどスマホ、facebookの普及もあって、それらの切り絵化された作品は多くの人々に見てもらうことが出来、すぐに評判を呼んだ。
「こんな絵、見たことない!」
「きれい!」
といった賞賛の中でも、
「似てる!」
という評価が最も多かった。誰もが知る有名人をただ鉛筆や絵具で描くのではなく、この、ぼく自身まだ未開拓のままチャレンジした、切り絵という画法で評価されるのが嬉しかった。
ぼくは毎日毎日、いろんな人物を切り絵にしながら、少しずつその手法に変化を加えていった。切り抜いた黒い紙の裏には、それまでただの白い紙を使用していたが飽き足りなくなり、色画用紙を貼ってカラフルにしたり、面白い構図などを探しながら研究していった。時にはゴッホやマティス、岡本太郎の作品などを切り絵で「模写」したり、様々なジャンルの血を混ぜ淹れようと試みた。SNSで褒められるという、これまでの人生の中でなかった新しい快感が、ぼくの創作に拍車をかけた。
初めてぼくが切り絵で描いた人物画、ジョン・レノン。
それを受け取った彼女はとても驚いたし喜んだ。すぐに部屋の一番目立つ壁に飾ってくれた。
「ええ! 凄い!なにこれ⁉ 切り絵? え、なんでこんのができるの?」
それまで、ぼくの描く落書きから絵はなんとなく上手だなあ、と知っていた彼女は「切り絵」というものの存在をよく知らず、興味津々に聞いて来た。
「小学生の時の担任に教わったねん」
と、その時はさらっと答えておいた。けれど、これはこれであまり思い出したくない記憶であった。
cut6 夜叉か女神か
「切り絵をどこかで習ったんですか?」
よく尋ねられる質問だ。それに対してぼくは「独学です」と答える。今現在ぼくが制作する切り絵の手法の九十九%は間違いなく独学だし、偶然にもそもそもベーシックな技術や、過去の誰かの発見とかち合っている項目が一部あるにせよ、一人で読書したり実践したりしつつ得たものばかりだ。後年、大先輩の切り絵作家の先生に、いろいろな質問をしてご教示頂いたこともあるが、基本の部分はやはり独学と開発だった。
脱サラをして、絵画教室をスタートし、それから人に教わることなく研究しながら身に着けていった力だったが、実はずっと昔、この基礎となる時代があった。
さかのぼること小学生の頃。五、六年生の時の担任、ウエハラという女教師との出会いだった。ウエハラは、とても気分屋の人間だった。それはもしかすると女性特有の気持ちの浮き沈みに過ぎなかったのかもしれないが、朝一番、教室に入って来た時の彼女の様子で、ぼくらのクラスの一日の明暗が分かれる。
夜叉か女神か。下駄の裏か表か。とにかく教室に入ってくるなり、この人の機嫌の良い悪いがはっきり分かる。機嫌が悪い時は、勢いよく扉を開けるとすぐ、黒板下のゴミ箱を蹴飛ばしては、
「昨日のゴミが捨ててあらへん!」
とツカツカと教壇へ向かう。まき散らされたゴミを、優等生の女子がかき集めて片すかたわら、そこから始まる話は、まるで身に覚えがないか、随分過去まで遡るうっすらとした記憶に等しい話を持ち出してのクラス全体への説教、他の教諭への批判などだった。
一方、機嫌が良い時は、ゆっくりと扉が開き緩やかな表情で入ってくるウエハラ。鼻歌、もしくは本域で歌を歌いながら教壇に立ち、今朝の朝食の献立などの話題を話し出す。クラスの誰かを名指しで褒めることもあった。本当に恐ろしいくらいの違いだった。良い時、悪い時。それはまるで関西発祥の某豚まん屋さんのCMで繰り広げられる、対照的な状況の演出ばりに。
ぼくらはウエハラの朝一番の形相で気持ちを振り回されはしたが、授業を始める前に語るトークが面白く、それは夜叉の時も女神の時もそれぞれ内容は違えど、まだ少年だったぼくには未知の、人生という冒険の手掛かりのような、胸躍る話題であった。あくまで思い込みの激しい、偏狭な視野の持ち主の独演会だったとしても、それは一人の大人が見る世界の見解や冒険譚だった。
人間としてウエハラがどうだったかは別として(当時小学生のぼくにはその判断すら出来ない)、教師としては優れていたように思う。基本的に話が面白いので、どの教科を教えるときもその内容は魅力的に思え、この五、六年生の二年間は苦手な教科はなかったように記憶している。少なくとも授業を受けている時は退屈しなかった。しかしウエハラは極端な意見の持ち主でもあり、テレビのお笑いタレントの名前を持ち出して「〇〇はかしこい。でも出っ歯の××はアホ」などと個人的な見解などをよく話していた。お笑い好きのぼくには愉快なテーマではなかったが、どんな話題においてもこの調子であり、ある種、人前に立ち何かを主導する人間には、これくらいの強引さや極端な選択肢の提示は必要なのかもしれない、と大人になってからは思った。
さてこのウエハラは当時のぼくらにトラウマに近い思い出を残してくれた。この小学校には高学年が四クラスあり、各教室の担任によってそれぞれ力を入れるテーマというものが持たされていた。そういう経営方針のようなものが。あるクラスは体育だったり、あるクラスは歴史の研究であったり、教育委員会か市の意向なのか、一つのコンセプトのようなものを持ってクラス自体の個性を追求する、というような動きがあった。
われらがウエハラのテーマは、図画工作だった。彼女が好き好んで選んだテーマなのか、割り当てられたテーマなのか、どちらにせよその力の注ぎようは度を越していた。絵画コンクールなどの公募展などを持ち出して来ては、図工の時間以外もそれの制作時間に当てられることがしばしばあり、締め切りが近づいてくると、真っ暗になるまでぼくらは絵を描いた。一部の生え抜きの者だけ、というわけではなく、クラスメイト全員だ。一体どうやって保護者に話していたのだろうか。今ならおおごとだと思う。けれど、そもそも絵を描くのが好きだったぼくにとっては不満を言う理由もなく、特に何も考えていなかった。
絵画コンクールのような、個別の作品を提出するもの以外でも、「クラスによる郷土研究」という名目で、昔の参勤交代で使用された駕籠を再現する、という名目でみんなでそれを作った。木を切り、模様を塗り、本当に人を乗せて運べる設計の下、それを完成させたが本当に小学生たちには骨の折れる仕事で、大変だった。苦労したぶんよく覚えている。この創作はとても楽しかったし、校長先生が直々にうちのクラスを覗いて感心していたことは誇らしかったが、「歴史の研究」をテーマにしているクラスの担任が、何とも言えない表情でこの様子を見ていたのを覚えている。確かにぼくらのクラステーマ「図画工作」の領域であることは確かだったが、明らかに「歴史の研究」という分野に足を踏み込んでおり、そのクラスを出し抜く形で、市から賞をもらうことにもなった。きっとウエハラは、生徒のぼくらから見ても他の教師と仲良くやっているようには見えず、一事が万事このような形で他人をやり込めていたのかもしれない。
四つ切画用紙程度の絵を描く個人制作にせよ、巨大な工作をする全体制作にせよ、日常の授業とは別に、常に何かしらの制作に、ぼくらは取り組んでいた。しかし当然皆が皆、図画工作に興味があるわけではなく、気性の激しいウエハラの前では屈託ない生徒を演じつつ、水面下では不平をぶちまける者もそれなりにいた。我が子から打ち明けられたクレームをもとに抗議する保護者もおり、そういうことがあると翌朝、「ウエハラ夜叉」は当事者の名前を伏せてその話題をとうとうと語り、
「みんなのためやねん。みんなに残せる物のために先生も、健康と家族を犠牲にして頑張ってる、どうか分かってください」
なぜか最後は熱い演説と変わっていき、ぼくらも胸がじんとしてしまうところまで誘導されている。そういう演説があった後しばらくは、ぼくらは平穏な学校生活を送る。時間割通りの授業を受ける、平穏な日々だ。しかし数日もすると、また図画工作メインの日々に戻った。二年間それの繰り返しだった。
強制とは言え、それはそれで情熱的な教育とも言えた。放課後に居残らされて、締め切りの近づいたコンクールの、絵の追い込みをよくさせられたが、ウエハラはぼくらをほったらかしにはせず、必ず教室に張り付いた。エゴなのか、教育理念の発露なのか、名声・出世欲に駆られての点数稼ぎなのか、今となっては分からないが、個人的には手数の多い面倒なことに手を出すその熱意は賞賛に値すると思う。ただ、これが図画工作ではなく、体育をクラスのテーマにする担任だったら、ぼく個人としてはこうお気楽な評論はしていなかっただろう。
ぼくらは高学年の二年間で、ありとあらゆる種類の絵のコンクールを描いた。今でもよくある人権啓発ポスターや、世界平和に関す絵、写生など次から次へとこなした。何度も言うが、ぼくにとってそれ自体は決して苦痛ではなかった。そんなコンクールの一つとして、姫路城を題材とした公募に臨むことになった。ぼくらが住む街が誇る姫路城は、今では世界遺産となっている。
「今回は、普通の絵は描きません」
この、姫路城の図画コンクールへの応募で、ウエハラは絵具も色鉛筆も使わず絵を描こうと提案した。
切り絵という画法で描く、というのだ。
クラス全員、黒い画用紙、カッターナイフ、カッターマットを渡されて、そこで生まれて初めて、切り絵に取り組んだ。白の色鉛筆を使って黒画用紙に絵を描き、それから切り抜いていく作業は新鮮で楽しかった。クラスメイトの「やらされている感」「こなしてる感」とは裏腹にぼくは、切り絵という画法の持つ独特の魅力、これまでの、鉛筆描きに色を塗るという描き方と違い、完成するまで完璧なイメージが見えない創作プロセスに、ちょっとしたロマンを覚えた。これが切り絵との出会いだった。
このクラスが、図画工作をテーマとするクラスで本当に良かったと思う。
自分ではスポーツもできず、他の友達のように兄弟と遊んだり喧嘩したりができず、そういった、ごく普通の同級生たちへの憧れにも似た欠落部分を埋めるように、このクラスでの(半ば強制的ではあるにせよ)創作に没頭していた。さんざん学校で描いて帰宅してからも、好きな漫画の絵を描いたり、気に入った映画の架空の続編のポスターを描いたりした。
静物画や写生などと違う、想像力を必要とするようなテーマの絵、たとえば「未来の世界」というような自由課題の絵に関しては、よくクラスメイトに図案を真似された。真似されること自体が嫌だというよりは、教室の後ろにそれらの絵が飾られると、そのうち何点かぼくと同じような図案の絵が並び、その状態を見ると、
「ああ、真似した子たちはこれ描くの、あまり楽しくなかったんだな」
という感情がぼくに芽生えるのがとても嫌だった。何か自分が悪いことをしている(悪事を先導しているような)居心地の悪さを感じるのだった。けれど、切り絵という画法で仕上げると、たとえ多少構図や発想が似ていても、それぞれに違いが生まれ、教室の後ろの壁の展示も、見ていて楽しかった。これはぼくが特段上手かった、という個別のレベル云々の話ではなく、切り方や白黒の残し方の割合などによって、ばらついた個性がそれぞれ反映されたからだ。ぼくらにとってカッターという使い慣れない道具、色鮮やかさから離れた子供らしからぬモノクロの世界、これらの特色が相まって、良くも悪くも想定外の仕上がりになっていたのだろう。作者のコントロールできない部分が、作品の完成を左右する画法だった。出来、不出来、といった狭い意味ではなく。
幾何学模様や、デザインを重視した、どちらかと言えば「低体温なアート」を生み出すジャンルのように思われがちな切り絵だが、ぼくにとってはやはりお絵描きの延長線上に切り絵という手法はある。一般的にクレヨン、色鉛筆、絵具、どの道具を使ってもそれらは絵という一つの芸術分野として扱われる。しかし切り絵は、カッターナイフを使う、糊で貼る、というプロセスを有するためか、絵でも工作でもなく、手工芸のような存在として捉えられがちだ。しかしぼくがずっと今でも、他の画材・画法から差別することなく「絵画の一種」として切り絵を扱うのは、ウエハラの存在があったからだ。工作でもコラージュでもなく、ぼくは切り絵を、黒い紙を切ることで表現する、絵画の一種として自然に捉えるようになった要因だろう。
ではなぜそこまで心酔した切り絵を継続的にやってこなかったのか。それは子供ながらに得た、この二年間における燃え尽き症候群のせいだった。
トラウマのような、忘れられない光景もいくつかある。
図画工作こそが正義、である当時のクラスにおいてぼくはいわば優等生であった。勉強もスポーツもいまいちだったが、このウエハラ王国においてはエリートというわけだ。普通の社会であれば、やっかみや妬みの対象となる存在だろう。ぼくがそういう扱いを受けなかったのは恐らく、一人っ子のボンボン体質で競争心がなく、いくら皆から絵を褒められても浮かれることなく、ただひたすら自分の世界を追求することだけに没頭していたからだ。誰かを打ち負かそうなどという功名心は一切なく、ただ無邪気に自分の世界にのめり込み、その純粋にあるがままの楽しい気持ちで皆と関わった。その明け透けな様子は、妬みなどの対象にすらならなかったのだろう。それと、当時のクラスメイトは皆、素直で良い子供ばかりだったこともある。そこへ水を差すのは支配者のウエハラだ。
ある放課後、いつものようにぼくらはコンクールに向けて切り絵を制作していた。仕上がった者は、ウエハラのところへ見せに行く。いつになくピリついた空気なのは、ウエハラの眉に刻まれた深いシワと雨のせいだ。いつも以上に夜叉モードの日。午後の職員会議で何かあったようだ。
カッターナイフを手に、黒い紙を切り抜くぼくらの耳に、突然何かをビリビリと破る音がした。
「こんなもん、アカンわい‼」
そう言ってウエハラは、一人の女の子が見てもらおうと持参した切り絵を引き裂き、その破片たちはハラハラと床へ舞い落ちていく。女の子がしくしくと泣き出す。壮絶な光景だった。
俯いて泣いている彼女に、ウエハラはとんでもない耳を疑うような言葉を浴びせる。
「こんなもん出せるか。あんたな、七瀬くんの切り絵見たか? よう見比べてみぃ。七瀬くんのんに比べたら、あんたのんはゴミや。ええか、七瀬くんは切り絵の天才やでぇ!」
やめてくれ…。
ここでそんなこと言わないでくれ…。
ぼくは誰かの作ったものと、引き合いに出されるために作っているわけじゃない。楽しいから、好きだから。
お願いだから、こんなふうにして、ぼくの作品の出来について触れないでくれ…。
ぼくは女の子から目線を逸らし、聞こえないふりをして机上の切り絵に戻ろうとしたが、無理だった。教室中に響き渡る怒号。クラスメイトはぼくの方を見はしないが、意識がこちらへ集中しているのが肌で感じられる。黙々と切り絵をする方が不自然だった。
こういったトラウマのシーンがいくつかあり、それらはきっと他の皆も大人になっても忘れられないでいるかと思う。特にぼくの場合はこの光景が強く残っていて、思い出すと涙が出そうになる。ぼくは、調子に乗ったり天狗になれない人間になった。出る杭はきっと、誰かの足や衣服を引っかけたり、傷を負わせる。そんな悲しい感覚が根付いた。
切り絵を破られた女の子は、図画工作が得意と言うわけでもないし、正直他の教科もパッとしない大人しい子だった。絵に関しては、ウエハラがいつも糾弾する、「お目目パッチリの漫画少女」を休み時間に友達と描いて楽しむ、普通の女の子だ。小学生らしからぬすらっとした体型、内面より先に、肉体の成長の早まってしまった彼女の泣いている姿を見ていると、なんだかそのアンバランスな様子にとても痛ましい気持ちになった。ただの子供だ。怒られるのが怖く、早く済まそうと急ぎ足で制作したかもしれないその作品は、アート作品とは呼べない代物かもしれないが、作者に無断で他人が引き裂く権利などどこにも存在しない。それは神様であろうと同じだ。胸が痛む。ウエハラという女教師への個人的な感情というより、一人の人間の手によって生み出された創作物がひどい目に遭う、その様子に悲しさを感じた。怒りを遥かに超越した悲しさは、便宜上「悲しさ」という言葉を使っているものの、うまく該当する日本語が他に思い当たらないほどに全身に激しいものを覚えた。どうかこのぼくの感情をそれぞれに想像して頂きたい。まるで、市販の絵具の箱に収められた、お決まりの色では表現しきれない色彩のような感情を。
ただただ泣くだけの彼女に、すぐに仲の良い女子が席を立って駆け付けた。こんなことがあっても、この駆け付けた女子を含め、やり場のない気持ちの矛先を、ぼくに向ける者は誰一人としていなかった。皆、いいやつばかりだったと思う。
そんなわけで小学校を卒業後、ぼくは切り絵をやることはなかった。封印した。大学生になり、ジョン・レノンの切り絵を描くまでは。黒い紙にカッターナイフを立てることによって、思い出したくない光景ごと引っ張り出されてくる気がしたのだ。
やがて、時間による養生によって封印を解くに至ったのだ。
「なんで切り絵なんですか?」
ぼくの作品を目にした人から、よくこの質問を受ける。油絵でもなく、水彩画でもなく、なぜ切り絵なんですか、と。この質問を受ける時は大抵、個展やイベントの会場などたくさんの人々がいる場所だったりするし、そこでの時間的制約もあり、なんとか頑張って質問者に分かりやすく説明を試みる。相手によってはそれほど深い意味を込めた問いではなく、単なる会話の取っ掛かりに過ぎないのかもしれないが、とにかくその場の流れで理解しやすい言葉をいつも探してきた。
「油絵や水彩画は上手い人がすでにたくさんいる。切り絵で人物画を描く人はいないから」
「絵を描く、紙を切る。一つの作品で二つの工程を楽しめるから」
「スケッチを描き、切り絵にすると思いもよらない仕上がりに出会える。自分のコントロールの及ばない作品が生まれる。それが好き」
というような答えの数々だ。どれも本当だけれど、一旦言葉にしてしまうとどれもピンとこなくなる。確認することで真理から遠のいてしまう量子力学みたいに。
作品を人に語る時、「ただ楽しいから作っている」としか言いようのないことにキャプションを必要とする。言葉で理解を試みるのは、作者の当然の義務であることはわかっている。しかし音楽や映画、漫画などのようにぼくも一言も語らず作品だけで納得してもらえるものを生み出せるようになりたいと今でも切に願う。
…しかしこれは、いささか謙虚が過ぎる考え方で、実はこうも思う。
鑑賞者にもっと成熟してほしい、と。
いつもアートはいい加減で、曖昧なものだなあと、ぼくはつくづく思う。例えばいつどこで聴いてもバラードはやはりバラードだし、誰がどう観てもアクション映画はいつもアクション映画だ。それに対してアートは、鑑賞者が心のコンディションや目にするタイミングでいかようにも変化する。子供の頃に見た「モナ・リザ」はかつて怖い絵だったけれど、大人になってから見ると、そこに色の深みや物語性を見出す。
「この絵のどこがいいのだろう」
と心の中で思っていると、隣にいるスーツ姿の他人が、
「この絵、一億円するらしいよ」
と物知り顔で会話しているのが聞こえた途端、その人にとって「名画」に転じる。
なんともアートはでたらめで曖昧だ。
しかしアートのその曖昧さが魅力であり、縛られない自由であり、作り手がその領域を強制しない限り、鑑賞者のおもちゃであり続けるのだ。
よくアートは自由だ、と人は言う。一見これは「なんでもアリ」「やったもん勝ち」と作り手にその気ままさが許されているような、あたかもアーティストの特権であるかのように解釈される。しかしぼくは違うと思う。自由が許されているのは、作品を見る人の方なのだ。
海を描いた絵がここにあるとする。海の近くに生まれ育ち、遠く離れた都会に住む人はその絵を見て故郷を懐かしく思い、感動する。海を今まで見たことのない人はその絵を見ることで海を知り、感動する。海の存在を知らされずその概念すら持たず生きてきた人は、その絵を見ることで海を想像し、夢を見る、または「こんなものはこの世にない」などと言って否定するかもしれない。そうやって、百人の鑑賞者にとって、百通りの作品になり得る。それがアートだ。これは音楽や物語にない自由の振り幅であり強さだと思う。
皆さんにもそういう幸せな鑑賞者あってほしいから、人の意見に惑わされず、時には嘲笑すらも恐れず、アートを気ままに楽しんでほしいと願っている。心からそう願う。
cut7 ストレンジカフェ
国内外の有名人を描いた「切り絵の似顔絵」は、すぐに評判になった。家族の記念やお祝いの肖像画として依頼を受けるようになった。それらの作品の画像をアップしたSNSでの投稿で注目を集めるようになり、神戸のイベントに出店した。初めて、ぼくの切り絵作品たちを生で人々に見てもらったイベントだった。
「アートブース募集」という広告をネットで見つけて応募したそのイベントは、田舎者のぼくにとって「神戸でのイベント」ということだけでとても輝かしいことに思え、選んだのだった。
後になって知ったのだけれど、数か月後に取り壊しになるショッピングモールが会場であり、店舗は結構な数がシャッターを下ろしている状態で、集客はろくに確保されておらず、何とも詐欺みたいなイベントだったが、それなりに収穫がないわけではなかった。無知は強しとでも言うか、「神戸は都会、絶対人が来る」という確信のもと、ぼくは会場に元気よく張り付いて二日間のイベントに参加した。芦屋のマダムや通りすがりのサラリーマンが、ぼくが並べた色鮮やかで繊細なタッチの切り絵の数々を目にし、それぞれの家族や友人をモデルに切り絵の注文を依頼してくれた。ばかでかいショッピングモールの屋内広場は閑散としており、人の往来は少なかったものの、確実にそこに来た人の目を引く作品だったようだ。
また、神戸近辺に今も住んでいる、大学時代の後輩の者たちも何人か来てくれて作品を買ってくれたり、初出店の成果としては上々だった。
その後、立て続けにぼくは地元姫路のカフェなどで作品展示をしたり、それらの会場で知り合った人々が、またさらに別の会場を紹介してくれたりと、その輪が広がっていった。
アーティスト=ギャラリーで個展を開催するもの。
という常識的な発想がそもそもなかったことが幸いし、ぼくが作品を見せる場面は多岐に渡り、普通にしていたら会うことのない人々とも出会えた。つい数か月前まで、営業という仕事をやっていたために身に着いた、フットワークの軽さが遺憾なく発揮されていた。
住宅展示場や自動車販売のイベントで「切り絵教室」なるワークショップをしたり、時には某有名野球選手もお世話になる病院の展示室を拝借して個展を開催し、そこでは医者や看護師、入院患者も作品を買ってくれたり、注文してくれた。どの場面をとっても、
「アーティストとはこういうもの」
「こういう場所で活動すべきだ」
などという観念がもしぼくに根差してしまっていたら、開拓できなかった出会いや発見を獲得することができた。
他には出張切り絵教室として、小学校や高校へも足を運んだ。個人の経営する音楽教室や保育園には、お絵描きの先生として、定期的に招かれた。また、地元ケーブルテレビの取材を受けたり、FMラジオへイベント告知を兼ねて出演したり、「切り絵」という画法の物珍しさもあってか、メディアにも取り上げられ始めた。「兵庫県を拠点に」ではあったが、なんとかこのままやっていけそうなくらい認知されつつあった。
今はもうなくなってしまったけれど、ストレンジカフェという店のマスターにはとてもお世話になった。神戸の閑散としたショッピングモールでのイベントの後すぐ、まだ右も左もわからないまま手探りをするしかなかったぼくは、友人に紹介されてこの店へ足を踏み入れた。
初対面のぼくに、
「うちの店、二階もあってそこ、壁が広いからさ、アート作品飾ったりとかできないかなって思ってたところなんだ。好きに使って良いよ」
と生まれて初めての「個展」なるものを開催させてもらうことになった。
ストレンジカフェはランチ営業から始まって、夕方はディナーとアルコールを提供する店だった。昔ながらの住宅地にひっそりとある建物はとてもお洒落で、そのまま神戸や大阪に瞬間移動しても遜色ないくらい、イケてる店構えだった。また、マスターの奥さんがシェフであり、男の彼がホール内を行ったり来たりしながらオーダーに追われる店で、こう書くと男女不釣り合いな役柄のイメージを持たれるかもしれないが、四十代半ばのマスターは男のぼくから見てもとても美しい容姿をしており、どれほど忙しい時間でも身のこなしは優雅で、なんら違和感がなかった。また、マスターの奥さんの作る洋食は大げさではなく絶品だった。
「作品展でもワークショップでも、何でも好きに使っていいよ、いつやる?」
ぼくが最近脱サラしたこと、作品を作り、絵画教室をやっていることなど簡単に自己紹介した後、
「姫路にもこんな凄い人いたんだね」
と、マスターはいたく感動してくれて、初めて会ったその日に
「タッグ組んでなんかやりましょう!」
と熱く手を握ってくれた。
その言葉に甘えて翌日には、個展について企画したメモを書いてマスターに見せ、一週間後には個展を開催した。実は後で知ることになったが、ぼくが活動をスタートさせたのとほぼ同時期にオープンしたこの店は、ランチタイムから夕方にかけて繁盛していて、たくさんの人々に作品を見てもらえた。お洒落な店構え(空き店舗をマスター自ら、全てペンキで塗り換えたらしい)と、美味しいメニューがすぐに評判になり人気を得ていたところへ、ぼくは便乗させてもらう形となり、作品の依頼もたくさん頂いた。厨房にシェフの奥さん、週末には学生バイトがいるものの、ほとんどマスター一人で一階と二階を常に動き回る、という忙しさだったが、それでも彼は客の一人一人に、
「いま二階で凄いアート展やってます。ぜひ見て行ってください。あ、その奥にいるのが七瀬くん、彼が作品つくってる切り絵アーティストです」
在廊しているぼくを紹介し、そう丁寧に言葉がけをした。
個展終了後に、マスターには会場をお借りした謝礼を申し出たが辞退され、
「ナナちゃんも、たくさんお客さん呼んでくれたしね。うちも儲かったよ」
と、逆にハンバーグランチをごちそうになった。絵画教室と切り絵アーティストデビューから半年ほど経ち、実はそこそこに経済的にも苦しかったので本当にありがたかった。
普通どんな会場であれ、場所代や作品販売の手数料を支払うものだし、そのほとんどの会場主は契約料や出展料だけ頂戴したら、イベントの内容や売り上げは知らん顔だ。われわれアーティスト、クリエイターはお邪魔している形だし、仕事をする場所を借りているわけだからそれは常識的なことではある。ギャラリーにしろ、カフェにしろ、自分の箱の維持がまず重要だからそれは自然なことだ。けれど、その常識的なビジネスライクの体裁は、長く関わっていくような関係性に至ることは無縁だった。
この人もぼくと同じ異端児だ、とぼくは思った。
このストレンジカフェのマスターに出会えたのは本当に幸運だった。 彼は鹿児島出身の元バンドマンだった。ミュージシャンという呼び名より、バンドマンという言い方が響きとしてしっくりくる。全国各地にあるライブハウスやライブバーなどでロックやオールディーズを演奏して生きてきた人だった。「虎」という、急遽出演できなくなったバンドメンバ―の代わりに、当日代打で演奏できるような人種が行きかう世界だそうだ。ぼくはそういう世界があることも知らなかったが、彼は人生のほとんどを全国各地のステージに立つことに費やしてきた。
「音楽で飯を食う」
とはメジャーデビューしてCDを出し、テレビやラジオに出て、時には映画にも出たりする、という意味だけだと思ってきた。ただ漠然と子供みたいに。
タレント、スター、芸能人。
ぼくにとってミュージシャンとははすべて、そのような人々と同じ扱いだった。
マスターは例えば、初めて行き着いた街のライブハウスで、初めて会うバンドの中に飛び込み、
「じゃ、コード進行はこうでこうで、女ボーカルが歌うから」
と言われれば有無を言わさずステージに立ち、リハもそこそこに百パーセント全力でやりきる、という実力社会を生き抜いてきた人だった。本当の意味でのプロミュージシャンだった。音楽が好きで、その好きなものを使い、目の前の人々を楽しませる、感動させる。純然たる、そういう在り方だと感じた。華やかさと煌びやかさだけに目がくらんだ挙句、偽音楽事務所に金を騙し取られた自分とは雲泥の差だと思った。
マスターのファンだった女の子は、腕のある料理人でやがて彼の奥さんとなり、そしてストレンジカフェという念願の夢だった店を持った。ぼくより七つほど年上で、まだ引退や会社で言うところの定年、という年齢ではないにしろマスターは、それまで腕を振るってきたミュージシャンとは違う形で、人を笑顔にさせて楽しませるだけではなく、
「夢を追う者を応援したい」
と思うようになったそうだ。
ぼくには想像もつかないいろいろなことを経て、彼なりに形にしようとしているのだろう。マスターのそばにいると、ぼくも体温が高くなるような気がした。安住の地を求める、といったことで心を穏やかにするのではなく何かやらなければ、と熱くなる。
「頑張ってる人を応援したいのさ。特にナナちゃんみたいなアーティストをね。おれの作品を見てくれ、おれがすげえもの作るんだ、おれが世界を変えてやるんだってやっぱ思うわけじゃん、もののを作る人間ってさ、誰だって。だからナナちゃんを、おれ、一人でも多くのやつに自慢したいもの」
このストレンジカフェで初めて会い、それまでの過去を知らずに関係を深めつつあったぼくたちだ。マスターの演奏は聞いたことなかったけれど、彼の言うどんな言葉にも芯の強さと説得力があった。音楽論やエンタメ論、人生に関わるよくある悩みなど、どんな話もぼくの心を打ち、その後の生き様の糧に出来うる素材だった。その場でうまく人の心を転がすような口先だけのものではない、深さのようなものが。
ミュージシャンに憧れて詐欺に遭い、都落ちをしたぼくの、ミュージシャンへの憧れが再燃した。
またミュージシャンを目指すのか?
いや、厳密にはこうだ。
ぼくも、何かパフォーマンスがしたい。今自分のできる才能を使って。
マスターのように、ぼくも「愛するもの」を使って、人々の目の前に立ち、ライブをする決意をした。
今ぼくが最も大切にし、心から愛するものを使って。
それは、切り絵を描く、というパフォーマンスだ。
とは言え、ぼくはそんなものは見たこともなかった。切り絵によるライブパフォーマンスというものを。お手本のないことだけれど、とにかく「愛するもの」で遊ぶところを見せて楽しんでもらいたい。
ボクシングアートで有名な「ギュウちゃん」こと篠原有司男さんのイメージがあり、アート作品の制作をライブでやるということに関して、色彩の鮮烈さが必要だった。ボクサーのグローブにペンキを着けて、キャンバスに叩きつけて作品を描く、激しいパフォーマンス。これが篠原さんのアートパフォーマンスである。ただ単に黒い紙を切り抜いて、その手捌きや細かさを見せても面白くも何ともないような気がした。どういう方法を取るか、よりも先にどうしたいかを考えた。
LIVE切り絵「切ル・観ル」(タランティーノの映画『キル・ビル』をもじった名称である)と名付けて現在もぼくはこの切り絵パフォーマンスを、大切なライフワークとしている。第一弾の時点ですでに考案したやり方はこうだ。赤や黄、青、緑など複数の色の紙を重ね、最後に黒い紙でそれらを覆い隠すようにして特別な「キャンバス」を用意する。来場客は最初の時点では、大きな黒い画用紙が板に張り付けられてるようにしか見えない。そしてカッターナイフで切り抜いていくわけだが、弱い力と強い力の加減によって、奥に隠れた色の紙が現れたり、手前に隠れた色が現れたりして、様々な色の形が浮かび上がってくる。最後まで何が描かれるか分からない切り絵によるパフォーマンス。ぼくは迷いなくこの方法でやろうと思った。
まだやったことのないもので、これで本当に入場料を取れるほど楽しませられるか不安だった。そこでぼくはこの頃知り合った友達に、このパフォーマンスに加えて「ギターの演奏」をお願いした。音楽とアートのライブというわけだ。当時はまだ表現者の知り合いが少なく、他にあたるところがなかったこともあり、彼にとっても趣味でギターを弾く程度だったが、その友達に頼んだ。
そして初となる「LIVE切り絵」当日。ストレンジカフェの二階の壁に立てかけたベニヤ板に貼られた黒い画用紙は高さ1メートル半、幅1メートル。その裏には同じサイズの黄、赤、水色の画用紙が忍ばせてある。超満員とまではいかないが、フロア全体が賑わう程度にオーディエンスは集まった。開演前にマスターがBGMを流してくれている。ぼくは、不思議なほど緊張していなかった。いや、厳密には緊張している。しかしこれまで、大学時代などでぼくがギターを演奏する前に感じたあの、嫌な緊張というのとは全く異質のものだった。
「上手くいくだろうか」
「早く終わらないかな」
「誰もこっち見ないで」
といった馬鹿げた緊張、もしくは心配や不安とは違う感情だった。完全にリラックスした緊張感は、楽しむ前提の気分で、初めてのデートに行く時のように心が弾んでいるのを感じる。
ただ一つだけ不安があった。ギターを演奏してくれる友達のことだ。十ほど年下の彼とは音楽や映画の趣味、笑いのセンスなどの価値観が近く、初めから気が合った。
しかしこの短い交友期間の中で、いくぶん気の小さいところがあるな、と感じていた。
職業はお堅い業種で、普段なら知り合うことのない人種であったが、たまたまあるイベントの裏方として関わっている彼と知り合った。パフォーマンスの話をすると二つ返事で引き受けてくれた。多少、
「小心者の目立ちたがりの気配があるな」
と感じつつも、ぼくもぼくでこの切り絵をライブパフォーマンスとして見せることに自信がまだない頃だったから、自分の言いなりになってくれる弱者と見込んでキャスティングした部分もあった。リハーサルも二、三度行ったが、当日の朝になると人前での演奏に怯んだらしく、ぼくに電話をかけてきて、
「ナナちゃん、一人でやった方が良いよ」
と言い出す始末であった。
一人でやった方がいい?
おまえのギター演奏込みで楽しめるライブだし、そういった言葉の数々をいくつも並べてなんとか説得し、ストレンジカフェまでギター持参で来てもらったが、
「やっぱりおれの演奏なんかよりさ、CDか有線でもって、気の利いたBGMかけて一人でやった方がいいって」
とぼそぼそ言い出した。パフォーマンスとして、ライブとしてどういう結果になるにせよ、一回目はこの、「誰かの生演奏と切り絵」という形で実験してみたかったので、良し悪しの問題ではないのだが、予想以上の客の多さに彼は完全に心が折れていたようだ。
開演まであと三分というところで、彼の姿が見当足らないことに気づき、ぼくは焦った。
マジか。
たぶん逃げたな、とぼくは思った。
BGMが止まった。
みんなのざわめきがゆっくり沈んでいく。
否も応もない。もう開演の時間なのだった。
恥ずかしいことに、でかい切り絵を描く間、音楽の演奏を、来場の皆様を楽しませる効果として友人にお願いしていたのですが…間違いでした。
彼は逃亡しました。
ぼくはこれから、一人で絵を描きます。音のない会場で。絵具でもない、よくわからないやり方で。
ぼくは黒い紙の前でカッターナイフを握ったまま立ち尽くす。ぼくは深く息を吸い込んでくるりと皆に背を向けて黒い紙に向う。一時間ほどかけて描きたい作品だった。友達のギター演奏は、おおよそその時間を共有できるぶんの選曲がなされていた。でも、あいつは逃げた。いくら何でも一時間の無音の中、初めてのパフォーマンスは、とても辛い。見ている方もキツイと思う。ぼくは全身から一気に汗が滲むのを感じた。カッターナイフを黒い紙の上に突き立てようとしたその時、ぼくの左側に何者かの気配があった。
マスターだった。小さなギターアンプを置き、すでにつないでいるエレキギターのストラップを肩にかけた。ぼくは瞬時に悟った。逃げる前に友達はマスターにだけ告げて去ったのだろう。恐らく、
「やっぱり七瀬さん、一人でやりたいらしいです」
とか何とかごまかしながら(事実、後でマスターから聞いた話では全くその通りだった)。
遂にマスターの演奏が聴ける。緊張したのは束の間で、その喜びの方が勝った。ぼくに切り絵パフォーマンスをするという発想をくれた人、人前でエンターテイメントを披露したいと思わせてくれた人、かつて某有名バンドから引き合いの話があったほどの元バンドマン。
マスターは静かに(というのはおかしいが実際そう感じた)、ロックンロールのリフを刻み始めた。大学時代に聞いたどの、誰の音よりも軽やかで力強かった。ぼくのカッターナイフはその音の始まりに完璧なタイミングで「しゅーっ」という音を立てて紙を切った。
ぼくの初めてのライブドローイングならぬライブ切り絵はとても素晴らしいアートになった。
ギター担当の友達だが、その後二度と会うことはなかった。ライブ終了後に一度電話をかけてみたが出なかった。ぼくには全くそのつもりはなかったが、きっと彼はぼくに逃亡したことを責められると思ったのだろう。だが不思議なくらい、ぼくには何の怒りもなかった。
逃亡した日の夜、
「嫁さんが体調悪くて帰ったねん」
と、彼からメールが届いたので、
「そうか、大変だったね。また飲みに行こう」
と返した。それは本心で誘ったのだが彼から二度と返事は来なかった。ぼく自身でも気づかないうちに強いプレッシャーを与えていたのかもしれないし、彼が一人で勝手に土壇場で内気っぷりを発揮しただけなのかもしれない。どちらにせよ、なんだか少し悪い気がした。
そう言えば、ぼくの記憶では一度あることで、彼に本気で注意をしたことがあった。ぼくの家で二度ほど打ち合わせのようなささやかな宴会をしたのだが、彼はトイレへ行くたびに小便を便器からフライングさせた。まだ知り合って日も浅かったので注意できず、ぼくはその度に床を掃除した。ぼくなりに気を使って、掃除していることすら気づかれないように静かに。しばらくして別の機会にそのことを注意した。穏やかに伝えたのだが、決まり悪く言い訳をしていた。
「嫁さんにもたまに言われるねん、小便フライングすること」
と言い出してから、彼はベラベラと自分に言い聞かせるようにして長いことしゃべり続け、あちこち話題が移った後、よく分からない方向で話は終わったのだが、要領を得ない話ぶりだった。バツの悪そうな態度だった。注意したことをぼくは後悔した。
人間は他人には理解できないところでいろんな感情を抱く。出来るかぎり理解しようと思うし、逆にぼくもぼくで相手に理解できるように、思いを明かすように、とは心掛けて生きている。何か別の場面で、この友達の中にある、タッチしてはならない部分に触れてしまったのか、それともぼくがどこかで彼に敬遠される行動を気づかずに取っていたのか。どうあれ彼はぼくから遠のいていった。
本当はマスターのカッコよかった話で締めくくりたかったのだが、どういうわけかこの日のライブのことを思い出す時、まず最初にこの彼の「小便フライング」のことを思い出すのだった。
LIVE切り絵「切ル・観ル」というタイトルに「Vol,1」と銘打った(初めからずっと継続するつもりだった)初のパフォーマンスはその後二〇二三年四月の時点で、二十七回行うことになる。様々なイベントや個展などを通していろんな知り合いや仲間が増える中、ピアニスト、バイオリニスト、DJなど多彩な演奏者と共演することになる。マスターには四度登板して頂いた。
会場もぼくが準備するライブもあれば、公立図書館や中学校へ招かれて公演することもあった。ミュージシャンにはなれなかったが、観客の前で創作することはかつての夢を叶えたことに等しい。そしてぼくはこのパフォーマンスで完成した作品を、そのあと取っておかないことにしている。すべて破棄する。初期の何作は個展のために展示し額装して保管しているが、それ以降はライブ終了後に破棄する。よく「もったいない」「ライブの後オークションすればいいのに」などいろいろなご意見を頂く。パフォーマンス作品を破棄することはルールでもなければポリシーでもない。
これは、そもそもの動機の問題だ。
「切ル・観ル」での創作は、完成作品のための創作ではなく、その創作過程そのものがアートであり、ライブなのだ。音楽の演奏会は、演奏者によってその場で音が生み出され、人々の心の中を通過し、消えていく。音符が形になって床一面をどんどん埋め尽くしていくわけではない。いわば演奏者と鑑賞者のみが、閉鎖的な空間で共有する特別な時間であり、限定された行為だ。ミュージシャンに憧れるぼくは、まさにそれを実践したいのだ。 生まれては消えていく。その場にいた者の心にだけ痕跡を残すもの。そういう特別なものとして存在するものもアートのひとつだと信じる。作品だと信じる。形として残さなくても、誰かが所有しなくても、それは存在していることになる。愛や夢や希望が、手に取って触れなくても見えなくても、それが「ある」ことは知っている。そういう種類のひとつなのだ。
cut8 ユイ
三年が経ち軌道に乗った部分とそうでない部分がある。地元・兵庫での知名度と活動においてはうまくいっていた。SNSのおかげもあって、色々な人から声をかけられることも多くなり、それは「うちの会社の商品パッケージに切り絵を」といった仕事面での依頼だったり、文字通り「いつも活躍拝見しています」といった見知らぬ人からの街での声かけでもあった。
自宅アトリエでの絵画教室、保育園への定期的な「出張おえかき教室」、各地域でのイベントではイラストによる似顔絵や切り絵の体験ワークショップなどへ出向き、平日も週末も充実していた。アーティスト仲間や応援してくれる人々とお酒を呑んだり親交も深めていった。
内容的には充実していたものの、三年経っても軌道に乗らなかったのは経済的なことだった。作品が売れる・依頼がある、といっても世界的アーティストでもない者が一作何十万も値を付けられるわけでもないし、学校などに招かれて行う教育的な仕事も、単価よりも数をこなしていくことで成果となるものだった。ぼくはコンビニのアルバイトをするようになり収入の足しにしていた。
当然のことであるしスタートを切る前からわかりきっていたことだったが、アートはぼくの「愛するもの」として生きるツールであり信仰であり、しかし生きるために稼ぐ手段としても、成立させねばならなかったものだ。この頃から、その信仰に対する気持ちのバランスをやや崩し始めていたように思う。目の前の仕事を、理想として追求してきたことを、数字でしか見れなくなりつつあった。
失いそうな心のバランスを保つためにはアルコールや盛り場を必要とした。毎晩ぼくは誰かとお酒を呑み、ギターを弾いて歌ったりした。大人の遊びとしては、可愛いというか健全な方だったと思う。そんなある夜にぼくは一人の女性に一目ぼれをした。一目見て「描きたい」と思った。
ユイは二十五歳でぼくと十五離れていた。ストレンジカフェで頻繁に開催される、趣味で弾き語りをする者たちが集うライブイベントの夜のことだった。ぼくを含めてアマチュアの同好会のようなライブだ。ユイは、こういう場によくある、「誰かの友達がまた誰かを連れてくる」、というような形でついて来た客の一人だった。ぼくとユイは出会った次の日に二人で飲みに行き、その夜のうちに男女の関係になった。
ユイはファッション雑誌から抜け出してきたモデルのように美しかった。ややぼくより高い身長は、学生時代から陸上競技に打ち込んできたせいだろう。県大会でそれなりに名を馳せるほどの選手だった。ぼくがずっと遠ざけてきた勝ち負けの世界に青春を費やし、自分と向き合い鍛練してきた人種だった。内面の本質的な強さはどうあれ、強くあろうとする性根を持ち(それはそうしないと生き残れない世界に身を置いて来たからだ)、端正な顔立ちにその固い決意のようなものが現れていた。
出会ってひと月ほどで、ぼくとユイはお互いの親を交えて食事をしたりするなど、すぐ親密になった。彼女は商社に勤務するOLで、よく出勤前にぼくがバイトする早朝のコンビニに顔を出してくれた。コンビニで働く同僚の主婦の人に、美しいユイのことを知ってもらうのは嬉しかったし自慢だったが、コンビニの制服姿をユイに見られるのはあまり良い心地ではなかった。
「あたし、女の友達ほとんどおらへんねん」
と、ユイはよく言っていた。彼女はお酒や男友達と遊ぶのが好きだった。彼女の車に乗ると必ずクラブミュージックなるものがガンガンに流れ、ぼくは頭が痛かったが何も言わなかった。この曲は全体的にデビッド・ボウイをパクっていて、さっきフレーズのは明らかにクラフトワークのフレーズをそのまま使ってる、ルーツミュージックへの敬意のない音楽って本当にスカスカだ、とももちろん言わなかった。
ぼくらは何となく「一緒になりたいよね」とほのめかし合っていて、だからこそ互いの親にもすぐに顔を合わせたのだけれど、ユイはどこか、人としての何かが安定していない女の子のような印象があった。うまく表現できないが、幼いというよりは、人としての体幹のようなものにぐらつきがあるように感じた。まだ遊び足りない、まだ落ち着くにはもったいない、といったフワフワした感覚だ。恐らく根は真面目で正直な人間なのだろう。十代の頃に陸上競技の部活動で、過酷でストイックな日々を送り、それなりに結果も出し、取り残した何かに目を奪われているのかもしれない。
「今夜は忙しい」
そう言って、ぼくと会うのを断る時、携帯越しに低いトーンで話す声はどこかぎこちなく、きっと男友達と二人で飲みに行くのだろうとぼくは察知できた。ぼくが特に洞察力が優れているわけではなく、それは感覚的なものだった。ユイはまだ若く、見た目も芸能人並みだ。ぼくは彼女に惹かれたが、それはぼくの劣等感の表れでもあった。彼女は放っておいても幸せになれるだろう。ぼくは四十になったばかりで安定した収入もない。学生や主婦に紛れてコンビニでバイトして食つなぐ、自称アーティスト。好きで始めた仕事ではあるが、今は目の前の生活のことで必死だ。そんな男を彼氏に持つユイ。いつ他の男に奪われてもおかしくないだろう。ぼくは早くユイと結婚したかった。そして実際、そのことを口にしてきたが、それはどこか恐れを回避する手立てのようにも自分で思えた。
他の男に奪われる前にユイと結婚する。このままアーティストとして不安定な生活を続けるか、いっそのことどこかに就職するか、ユイと出会う少し前から、ぐらぐらとさまよう気持ちを抱えていたが、その決着を着ける絶好の機会でもあるように思えた。
付き合い始めて四カ月ほど経った頃、ユイの妊娠が分かった。正確には彼女本人はもう少し早く気づいていたのだろうけれど、いつになく心ここにあらずといったユイの不自然な態度に気づいてからから一週間後に、ようやく打ち明けてくれた。何となくそうではないかと思っていたが予想通り、他の男の子供だった。ぼくはユイのことが好きだったが、OLの彼女とぼくは生活のリズムに多少ずれがあり、さほど性行為はしていなかった。そして妊娠したことと同時に、すでに中絶もしていることを知らされた。この事実を明かされた時、ぼくには怒りや動揺はなく、ただただユイを失いたくない、という惨めな想いだけがあった。広い意味では愛と呼べる種類の感情かもしれないが、どちらかというと執着に近いものだった。ぼくには彼女を責める度胸や、毅然としたものがなかった。
「あんたと出会う前に、何度かそういうことをした人やねん。彼氏でもない男」
とユイは言い、ぼくは黙って話を聞いていたがそれはきっと嘘だった。これまでの期間に嫌というほど、ユイのおかしな態度を見てきた。恐らく、ぼくと付き合ってからの関係か、仮に事実として、妊娠に至る行為があったのがそれ以前だったとしても、関係はぼくと並行して続いていたような気がした。彼女の言うことを信じる信じない、とか、前向きに捉える捉えないの問題ではなく、嘘の下手な者の嘘は相手に分かる。ただそれだけのことであり、ぼくはもっと鈍感な人間になりたいと思った。
ユイはこのことを打ち明けることで、ぼくとは破局するだろうと心配していたようだ。ぼくは表面的には優しく、寛容な男の態度で
「終わったことは終わったこと。前を見よう。これからも付き合っていきたい」
とユイに伝えた。
「ありがとう」
ユイはそう何度も言い、泣きながら喜んでいた。ぼくはここぞとばかりに彼女に優しく言葉をかけ続けたが、どちらもお互いの存在を無視した、自分の中にある不安を解消することを目的とした、不協和音なやり取りに思えた。
夜のコンビニに車を止めて寄り添うぼくらの姿は一見、甘い時間を過ごす恋人同士にしか見えなかっただろうけれど、果たしてこの夜の会話の中で互いの魂が、本当に触れ合った瞬間は一瞬でもあったのだろうか。
夏に入る前に二人で温泉宿へ泊りに行った。まだ術後間もなかったので、体を交わすことはなく穏やかな夜を過ごしたが、こういう場所でしんみりと過ごすことは、派手好きなユイには不向きで不自然に思えた。一泊二日の旅はよく晴れていて、声を出して笑う局面も多々あったが、始終ユイの、どこか遠慮がちで気遣う雰囲気はぼくの気持ちを重苦しくさせた。いつも言いたいことをズバズバ発言し、強気な態度のユイはやけに従順な態度で、それは安心よりも不安を感じた。言いたいことが言えない空気がずっと二人の間に流れていた。
数日後、二人で見たかった映画に行く約束の日の朝、ユイからのLINEで「ごめん、家の用事で行けなくなった」と連絡がきた。ぼくはなぜ当日になって、と少しムッとしたが渋々了承した。仕方なくその日の夕方、家で過ごしているとユイから「いま何してる?」とLINEが来た。ぼくは電話をかけた。ユイは酔っぱらっているようで、
「ごめん。家の用事っていうのは嘘」
心の中で「たぶんそうだろうなと思った」とぼくはつぶやいた。
「ホンマはな、男と飲みに行くつもりやったねん」
あまり呂律も回っていないユイの話をぼくは黙って聞いていた。
「でもすっぽかされて。…あたしホンマ、アホやわ。…赤ちゃんもなくして…もう、男と飲みに行くんも怖い」
正直、何を言っているのか全く理解できなかった。どういう感情を伝えようとしているのか、泥酔しているにしても筋の通らない発言だったが、ぼくは自分が激高していることだけは分かった。
それまで、どんなことが合っても何を言われても、ユイに対して優しく寛容な年上の男を演じてきた。
金がないのに無理をして食事代を出したり、趣味の合わない話に興味を示すふりをしたり、ぼくはユイを引き留めておきたい弱みから、いろいろな場面で自分を偽った。その挙句に…。ぼく自身の目にも見えない、これまでの鬱憤が泥のようにして蓄積されていた。
「何をわけのわからんこと言うとんのじゃあっ」
という大声を出し、頭が真っ白になってしまった。ぼくもユイと同じく意味の理解できないことを言って、携帯を切った。怒りに任せてユイを罵ってみたものの、別れる、という決断に至れないのがぼくの惨めさだった。どういう目的であれ、ユイはぼくに嘘をついて男と飲みに行こうとしていた。ついこの間、軽はずみな行為の末、女性として苦しくて哀しい決断をした後なのに。
ユイの心の中には、ぼくの理解の及ばない領域がある。
常に何かを求め、手に入れたそばから何かを破壊せずにいられない、とでもいうのか。
今でも、この頃の彼女には何が必要だったのか、何を求めていたのか答えを出せない。少なくとも何か、救いとか癒しのようなものを求めているようには見えなかった。ぼくはぼくで、若く美しいユイを自分のものにしていたい、という欲に駆られていたやましさがある。それも決して、救いや癒しの類とは言えなかった
この翌日の夜、ぼくは適当なコンビニの駐車場でユイと会い、話した。彼女は「ごめん」と謝り、ぼくは「わかった」と答え、核心に触れるような質問を一切しなかった。きちんと説明を促すことで、知りたくもないことを知ってしまう気がした。まるでこの1ピースを抜くことで、全部崩壊してしまいそうなジェンガを目の前にしているかのように、ユイに接した。とにかくぼくには、何事もなかったように振舞い、それが息苦しく不自然だったとしても、関係が切れないようにすることの方が大事だった。ぼくらは次の週、呑みに行く約束をした。
約束の夕方、駅前の広場で待っていると遠目にもそれとわかるほど、露出度の高い格好でユイが向かってきた。まるで水着なのかと見間違うほどのファッションだ。白いセパレートで、ショートパンツから伸びた長い脚は、座ると付け根まで見えそうなほどぴったりしている。長い髪を後ろで束ね、まるでインタビュー記事の撮影か何かでやってきた海外の女優さながらだった。週末の日暮れに賑わいが増えつつあった。凝視しないまでも、周囲の視線は明らかにユイに集まっていた。露出した肩、腹や脚、目のやり場に困った。もともとぼくより少し身長が高いユイはハイヒールを履き、ぼくを見下ろすような状態であり、ぼくの目線は手に取るように分かるはずだった。ぼくは、少し胸をそらすように、背筋を伸ばして並んで歩きだした。
チェーン居酒屋でユイと対峙してビールを呑み、料理をつついた。斜め向こうのテーブルにいる三人組の若い男たちが、会話をしながらも時折チラチラとこちらを見るのが分かった。ユイがトイレへ向かう時は、露骨にその長い脚から腰のくびれにかけて視線を貼り付けた。
こういう服を持っていることにも驚いたが、そもそもどういう時に着ていくのかも気になった。けれど一切そんなことには触れず、他愛のない会話を続けて二人でビールを何杯も飲んだ。聞くまでもなく、クラブに遊びに行く時用の服だろう。
クラブという場がどういうところか正確には知らない。ぼくが大学生の頃に流行ったダンパ(ダンスパーティの略)みたいなものかもしれないが、ユイの服装を見ると、そんなダンパなどよりもっときわどい、隠微な光景をぼくは想像した。ぼくの想像の中では、クラブに比べると、学生時代に足を運んだダンパなんて、町内の盆踊りのようなものだった。
「うまく声かけさせて、男にお酒おごらせるねん」
と、ユイはクラブでの遊び方について、これまでも悪びれることなく話していた。まるで下心のある男の方が悪人で、その悪人から搾取することは正義の行為であるかのような響きを含んでいた。ユイがぼくに語る、クラブに関する話の裏には、性交や時には違法、または違法すれすれの薬物の存在すら感じさせた。ユイがはっきりとそう言ったわけではないが、それをほのめかすことでぼくに対する自分の地位が上がるとでも考えているかのように、言葉の端々にその可能性をイメージさせた。でもぼくはいつでも、害のないことに話題を集中させるのだった。
チェーン居酒屋を出てぼくらはラブホテルへ向かった。ぼくが避妊具を着けようとするとユイはそれを拒んだが、
「愛してる」
とぼくは精一杯の穏やかさで言って、優しく諭すように説き伏せた。
ぼくはそうすることが優しさだといつも信じてきたが(つまりきちんと避妊具を着けること)、ずっと後になってこの時彼女は、ぼくが孕ませるのを望んでいたのだと気づいた。それまで見たことのないセクシーな服装、酒の席の話題もどこか距離があり、それはよそよそしいというよりは性的な興奮を誘う感じだった。何かを覚悟して来たのだと思う。
ぼくは泊まる気でいたし、ユイもその意思を匂わせていたが行為の後、しばらく無表情だった彼女は「帰ろ?」と言ってシャワーも浴びずに下着を身に着けていった。
しらけた空気が部屋を満たし始めた。
夏が本格的になる前にユイは、仕事を辞め資格試験を取得するための勉強を始めた。ぼくは「同棲しよう」と彼女に持ち掛けた。一軒家の一部屋を使って勉強部屋にすれば良い、食事はぼくが作る、と提案したが彼女は断り、逆に、
「しばらく距離を置きたい。来年の試験が終わるまでは専念したい」
と淡白に答えただけだった。ぼくはそれに了承し、その後はぼくが思う適度な、かゆいところに手が届く塩梅を見計らいながら励ましのLINEを送ったり電話をかけたりした。寛容で余裕のある大人の男として振舞った。あなたを想うからこそ、離れて見守る愛に徹することの出来る男なんだ、とばかりに理想の男を演じた。実際には常に心の中は不安でいっぱいだったが、信じよう、信じられる自分であろうと努めた。
しかし何度も頭の中に浮かぶ、他の男と酒を飲み、歓楽街やクラブで淫らな時を過ごすイメージを消し去ることはできなかった。連絡は控えようと思いつつ、こらえきれず時々携帯を鳴らすと、騒がしい空間で低いトーンで話すユイの声が出た。言葉には出さないが「なに電話してきてんの」と言わんばかりに瞳に光を宿さない、無表情なユイの顔が目の前にいるかのように感じられた。
結局ぼくは、ユイが翌年に受ける資格試験を待たずに別れを告げられた。絵画教室の時間に送られてきたINEのやり取りであっさりと終わった。
十二月のユイの誕生日がもうすぐ、という頃だった。別れ話をLINEで済ませたのは、ぼくが友人のケーキ屋に頼んでいた、彼女のためのバースディケーキが出来た、という連絡をもらった翌日のことだった。ユイの似顔絵の描かれたプレートの載ったケーキである。ぼくはそのケーキをどうしようかしばらく迷ったが「誕生日のケーキを頼んでいたから、これだけ渡したい」とLINEを送ると、彼女から「ありがとう。でも今夜は遅いから家にいない」と返事があり、ぼくはユイの自宅の前に置いておくことにした。ほんの一瞬、ぼくはそのケーキを箱ごとゴミに出そうかと考えたが、友人の店が作ったケーキだ。手がかかっていて本当に美味しいケーキだと知っている。感情のはけ口にするにはあまりにも罪がなさ過ぎる。 夜の一軒家に明かりが点いており、家人がいたようだがインタホンを鳴らさず、鍵のかかっていない門から入り、ドアのすぐ横の、街灯に照らされた地面に置いた。ケーキのプレートの似顔絵は、温泉宿に泊まった時に撮ったユイの写真をもとに描いてもらった絵だった。ぼくはどこかでユイの気が変わることを期待していた。それはとても女々しく未練がましい、自分でもうんざりする考えだった。
つづく
cut9 暴発
二〇一六年。
ぼくの人生において、忘れられない年について話すときが来た。
ユイと別れ、年末から二〇一六年の春にかけて、ぼくは精力的に活動した。
ライブパフォーマンスの認知度が上がったせいもあり、結構変り種の内容での公演が増えた。インディーズ映画の上映会、美容室を会場にしての公演、絵画教室の生徒たちが描いた絵を裏に忍ばせて切り抜いていくパフォーマンスなど、いかに人々を楽しませる内容か、楽しめる場所か、いろいろなことを試しながら実験的に動いた。その年の春まで毎月、どこかの会場で公演をした。
絵画教室も生徒が増えた。
手が汚れることを極端に嫌がって、母親を心配させていた女の子が、一時間の間に率先して絵具まみれになるのを母親と一緒に目の当たりにしたり、ぼくの切り絵をもとにしたお話を生徒たちに書かせたり、数々の刺激的なアート体験を実践できた。ぼくのあまり得意ではない、工作や立体作品のアーティストたちに声をかけ、講師として参加してもらい、特別授業も設けた。
また、ギター一本でツアーをしていた有名なアーティストが、ぼくの行きつけのストレンジカフェにも巡業に訪れ、彼と親しくなったおかげで神奈川のラジオ番組に電話出演させてもらったりもできた。
四月の終わりには、ぼくがこの三年ほどの間に知り合った、様々なジャンルのアーティストたちを集めて、イベントを開催した。イベントの集客自体は正直なところ上出来とは言えなかったが、暇なのをいいことに、二人のアーティストに姫路駅前でゲリラパフォーマンスをさせた。
書家の男は大きな筆にたっぷり墨をつけて、絵のような文字を書き、アート作品を完成させた。画家の女性は両手に直接絵具を着けて、キャンバスに絵を描いた。それは、ややもすれば裸になって魚拓ならぬ人拓までやってのけそうな、熱に浮かれた勢いで、見ているこっちまでハラハラさせられた。この二つのパフォーマンスを、一切告知なしに同時に行い、黒山の人だかりを作った。それは、警察を呼ばれるぎりぎりの行為だった。
また、初めてクラウドファンディングというものに挑戦した。この年の六月に東京のビッグサイトで開催される、クリエイター向けの大きなイベントに参加するための費用が捻出できず、専用サイトを使わず、SNSで支援を募ったのだ。実に仕事は細々と忙しく稼働していたが、まだまだ余裕のない暮らしだったので、そういう形で経費を作る必要があった。イベントには三日間の参加となり、東京での滞在費、出展料など諸々の金がかかる。Facebookでリターン品とそれぞれの金額を細かく設定し、一週間ほどで目標の金額に達した。数十万円程度ではあるが。
これらの活動は、ぼくの独特の軽快な文体でブログに面白おかしく書いて発信し、とても順調にアーティスト活動を楽しんでいるように、人々には見えただろう。事実、ぼくはアートと戯れ、心の底から楽しんでいた。年末から四月までの目立った活動はざっとこんな感じである。五、六月にも割と規模の大きい、初挑戦となるイベントやライブなどが控えていたが、それらのいくつかは参加または実行することができなくなる。
二〇一六年五月八日、ぼくは警察に逮捕されることになるからだ。
二〇一五年一二月から翌年の五月五日までのぼくのブログを見ると、いかにぼくが健全な絵画教講師として、順風満帆な切り絵アーティストとして活動しているかが伺える。事実そうだったし、それまで通りアートを世に広め、人々に楽しんでもらうという目的を掲げ、それに従事していた。そこには一点の曇りもない。しかし、ユイと正式に別れたことで、一個人としてのぼくの精神は荒んでいった。それはまるで、水が氷になるように、氷が水になるように、最終形態への流れは迷いなくゆっくりと順調であるようにして、目には見えない荒廃が進んでいった。運命が、どろりとした液状になって突き進み、何かにぶつかるのを待っているようだった。
よく一人で酒を飲むようになった。それまでも、サラリーマンになる時に下戸を治そうと訓練した飲酒は、ぼくのストレス発散に欠かせない行為となり、誰かといる時もひとりでいる時も嗜んできたが、付き合い方の質が変わって来た。まるで燃え盛る火に消火器を丸ごと投げ入れるようなやけくそな気持ちで、ぼくは体に酒を入れた。時間も場所も選ばなかった。夕方から絵画教室がある日の朝に缶ビールを開けてしまうこともあった。
「これくらいの量なら教室の時間までに酒が抜けるだろう」
と踏んで飲むのだが、結局顔色が変わらないので、直前で体調不良を理由に休講にしたりすることもあった。
コンビニでの早朝バイトが終わると、店で缶ビールを二本買い、帰りの車の中で飲み干した。週に四日のコンビニ勤務のうち半分は、そうして憂さを晴らした。
また、どちらかと言うときれい好きなぼくだったが、アトリエ以外の部屋の掃除を一切しなくなった。絵画教室にやってくる生徒や来客には、そうと分からないよう普段通りに振舞い、人目に付く場所の清掃はしていたので、心も家も荒んでいることがばれていなかったとは思う。しかし階段から二階にかけて床には常にホコリがうっすらと積もり、バスルームの排水溝もほったらかしで、シャワーを浴びるとすぐに足元に排水されない湯の層が出来た。バルコニーも同様に、黄砂を伴う風の影響と、洗濯物の糸くずで雨どいが詰まり、雨が降るとすぐに池のように汚れた水が溜まった。
ぼくは精神的なバランスを完全に失い、所かまわず鬱憤を晴らすようになった。画材屋で騒いでいる男子高校生にまわし蹴りをしたり、バイト先のコンビニでは、忙しい時間帯にWi-Fi目当てにスマホ片手に仁王立ちしている、他の客に邪魔になっているサラリーマンを怒鳴りつけた。
かつてユイに、ぼくの性格についてこう言われたことがある。
「あんたの変な正義感はなあ、ちょっとウザい」
ぼくの中にある几帳面さから生まれる性質は、確かに誰かを息苦しくさせる一面がある自覚はあった。十代の頃から根差している要素である。
高校生の時、学校からの帰宅途中、自転車に乗っていると道を尋ねてきた車があった。運転者の男は、後続車両も気に止めず、スピードを落としながら窓を開け、高校生のぼくに道を尋ねて来た。
「車から降りて、ちゃんと『すいません、道を教えてほしいんですけど』って言いなさい」
とぼくは返し、自分より倍ほど年上の男の非礼を責めた。
ある在宅中、母親が風邪を引いている時にしつこく新聞の勧誘に来た男には玄関口で説教をし、相手が謝罪するまでそれを続けた。
「さっきからうちの母親が『風邪ひいてしんどいから』って言うてるでしょうが。さっさと引き上げなさい」
面倒くさそうに困り顔で勧誘員が「わかった、わかった」と返すとぼくは、
「『わかった、わかった』じゃない、わかりました、となぜ言えないのですか? ぼくが高校生だからですか」
と続けて、しっかり返事をさせるまで帰さなかったこともある。
また、小学生の頃、
「みんなでタネを植えた植物を見に、校庭へいきましょう」
と教室を出る際に担任が
「ハサミを忘れずに持っていくように」
と付け加えて言ったが、みんな授業中に外へ出る、というイレギュラーな行為に興奮し、舞い上がり、誰も聞いていなかったようだ。ぼくは生来の性格から律儀に、ハサミを持って行った。そこで指示した担任の言う通り、自分の鉢の植物の不要な葉っぱを切ることができた。本当に誰一人、ハサミを持ってきていなかった。ぼくが他の者にハサミを貸すと「ぼくも貸して」「わたしも貸して」とまた貸しの連鎖が延々続き、結局最後の者が使い終えたハサミを、その辺に黙って放っておかれた。ぼくはその日の放課後、「終わりの会」でその件についてぼく以外の全員を告発したが、担任は、
「みんな、七瀬くんに謝りなさい」
とおざなりに言いつつも、とても面倒臭そうな態度が見て取れた。
正しい正しくないの問題ではなく、どこかぼくのやり方というのは人間社会(ぼくから言わせると村社会)の秩序において異物感があるのだろうとは思う。それがユイの評論するところの「変な正義感」というやつで、普段、表面的にはなりを潜めるように努めていたが、張り詰めた気持ちが日常的に小さな火山となって噴出させずにはいられなくなっていった。
ぼくは目的意識を失っていた。一体何のためにアートを、絵画教室をやっているのだろうか、と。
ぼくは幸せになってはいけないのか、なんであんなふうに一人の女に振り回され続けた挙句、傷つけられねばならなかったのか。悲劇のヒロインよろしくぼくは自分の境遇を呪った。出会ってしまった人物、出くわしてしまった出来事に対して、それがどんな質のものであっても、永遠に自分に付きまとうものではなく、そこから人は立ち直ったり、何かを学んで糧にしていくように世界は出来ている。この時のぼくは、その、さっさと立ち上がって歩き出すべき場所に不健全に踏みとどまり、恨みつらみを募らせることでエネルギーのはけ口にしていた。
事件となるのはゴールデンウィーク最後の週末だった。
ぼくはその夜、生まれて初めてクラブという場所へ出かけた。それは知人のアーティストが企画するDJイベントだった。また、「別人になること」を望んでいたぼくは、知人が声をかけてくれたことをいい機会に、ユイが好んだこの世界へ足を踏み入れようと思った。ユイが、ぼくを捨てたことを後悔させるような存在になれるかもしれない、という思いもあった。はなから、そんなところへ行ってみたとて到底楽しめる気はしなかったが、これまでそうしてきたように、自分の何かを破壊できるかもしれない。「何もしないぼく」を、ぼくはずっと忌み嫌ってきて、それを少しずつ破壊し変えることで成長している実感を得てきた。それでも、意を決して飛び込んだ場所が、好奇心とワクワク感と心震わす何かを、一切感じられないと判断した時は、素直にそこから身を引いた。別人になるにしても、自分の心を騙してまでは変身出来ないのだ。しかし今いる、ひたすらに恨みつらみを募らせているだけの場所は、自分のいるべき場所じゃない。十分ぼくは知っていたと思う。どこかで破滅を願っているぼくがいた。
地下にあるそのクラブで、ぼくはしこたま酒を飲んだ。薄暗い洞穴のようなフロアは、神秘的というより淀んだスラムのようだった。二人組の女たち、狙いを定める三人組の男たち、といった大まかな組み合わせがフロアのあちこちに存在した。ぼくとは誰一人目が合うことはない。くまなく人々の顔を見たが全く記憶に刻まれることがなかった。酔いがまわってきたのか、無意識にぼくの脳がデータ保存を拒否しているのか、いずれにせよ暗い照明のせいではなかった。ぼくにとって興味の湧く相手もない代わりに、ぼくを必要とする者もいないようだった。
二時間ほど誰とも話すことなく、音楽(と彼らやユイが信じている暴力的なもの)に耳を塞ぎ、ただ強い酒だけを飲み続けた。いつも常用するビールと違い、腹に溜まらないアルコールは、ぼくの五感を痺れさせていった。それでも、あと一口でへべれけになると判断したぼくは、ここを後にすることにした。多分、ぼくには似つかわしくない場所だ。残念ながら、ユイが振ったことを後悔するような「イケてる男」に、ぼくはなれそうにない。そういう別人にはなれないことを、まるで万力が締め付けるようにしてじわじわと思い知らされるだけだった。とにかく地下にいると、何かに取り憑かれたように、気分も体も重かった。
這うようにして階段を上がり、ぼくは出口を目指した。途中で、地下へ降りようとする若い連中の嘲笑を浴びたが気にならなかった。なんとか地上へ出ると、鼻からめいっぱい空気を吸い込んで毒素を放つようにして息を吐きだし、ぼくは身も心も少しだけ軽くなったような気がした。元の世界へ逃げ出してきた気分だった。ぼくは明るい喧噪目掛けてふらふらと歩き、吸い込まれるようにして駅へ入り、二十分ほど電車に揺られ、自宅最寄り駅で降りた。まるで時間的な感覚を欠いたまま改札を無事に通った。まだ日が落ちて間もない時間だったがロータリー付近は人通りが少なく、薄暗かった。
トボトボと家路に着こうすると、こちらへ向かって歩いて来る、中年の女が姿が見えた。泥酔して視野の狭くなったぼくの視界には、彼女の周囲の存在が何一つ把握できていなかったが、何かとぶつかってつまづいたのが分かった。地面に伏すのをなんとか防ごうと、よろめいている女。その姿を気にする気配を見せながら、三人組の人影が去っていく。真ん中に女、両端に男、の三人組で、更に彼らがすぐ近くのコンビニに入ろうとするのが見えた。ぼくから見て左端に歩いていた背中の男が、その中年の女とぶつかったようだ。ぼくにはその男が「邪魔だから、お前がどけ」とばかりにわざと強く体当たりして見えた。その男は、特に気に止める様子もなくやり過ごそうとしているようで、コンビニへと向かっている。酩酊した頭でも、ぼくにはこの一連の様子が把握できた。
ぼくはカッと頭に血が上り、その男の方へつかつかと歩を速めた。全く迷いがなかった。ぶつかったことにあっけに取られて、去った男の方を振り返る女は、もうすでに態勢を元通りにしていたが、ぼくは一切その人をいたわることなく突き進んだ。その女の安否など、全くどうでもいいことであるかのように、わずかな距離、ひたすらその男の跡を追った。
三人組のうちの男女二人がコンビニに入り、当の男は道端でタバコを取り出そうとしていた。
「おい、こら」
男は一瞬、声の方向に戸惑いながらもタバコをくわえた顔をこちらに向けて、ぎょっとした目でぼくを見据えた。
「お前いま、わざとぶつかったやろ?」
ぼくは男の目の前に立ちはだかり、ついさっきの、女との衝突のことで詰め寄った。男はヤンチャな感じではなかったが、体格のしっかりした若者だった。いきなり見知らぬ男に話しかけられて、またその内容が瞬時に把握できずに、虚を突かれた面持ちで面喰っていたようだが、「あ、さっきのおばちゃんのことか」とぼそりとつぶやいた後、
「知りません、気づきませんでしたよ、そんなの」
と、まともに取り合おうとはしなかった。
「いや、あの勢いがわざとやないわけないやろが。ちゃんとあの人に謝れ」
「いや、わざととちゃいますよ」
「第三者のおれが言うとんねん。見てわかるくらいの勢いやったがな」
と、ぼくは更に言うと男は返した。
「じゃあ、それでいいですよ」
じゃあ、それでいいですよ?
「わざとやった、でいいっすよ。そこまで言うんやったら」
じゃあ、それでいいですよ。
頭の中で男が放った投げやりな言葉が繰り返され、ぼくの体内で一気に何か熱い激流のようなものが押し寄せるのを感じた。
おれが間違ってるのか?
いや、おれが間違ってることがあるとすればそれは、この目の前にいる、頭の悪いやつに話しかけたことそのものだ。それは間違っていることかもしれない。しかし、話しかける動機となった思考のプロセスに間違いなどないはずだった。
歩行中に、目の前のやつがおれを認識しているにもかかわらず、身を引かない。うぜえ、邪魔だ、おれ様の目の前から消えないなら、消してやる。
男はそう言わんばかりに、相手の女を、車道へ押しのけるようなくらいの力を込めてぶつかった。まるで不慮の事故であるかのような、何食わぬ表情と身動きで。
身をぶつけられたのはぼくではない。まるで見知らぬ女だ。ぼくのタイプでもない。正直、明日か明後日、どこかで消えてなくなろうと、一切気にもかけないような人間だった。ぼくの人生にとっては、何の影響も与えない人物。エキストラ、モブキャラ、ゲーム画面の端っこを埋めるような存在。何の思い入れもない。
しかし、その事実とは別に、この男の傲慢さに怒りを覚えるのだった。そしてその怒りの発動と同時に、存在を軽んじられた女への同情がなぜだか湧いてくる。
この女の存在を軽んじているのは、この男か? それともぼくなのか?
最終的にぼくは、ぼくの抗議が軽くあしらわれ、軽んじられたことに対して激しい怒りを覚えただけなのかもしれない。ともかく、そうであるとしたらユイの言う「あんたの変な正義感」とやらは、実は大した正義感ではないのだろう。少なくとも、人生の中心に据えるほどの意味を持たないスローガンに過ぎない。
気がつくとぼくは、男のこめかみに右の拳を打ち放っていた。その一打は始まりに過ぎず、ぼくはそのまま気が済むまで暴力を続けた。
後に警察の取り調べ室で、ぼくはこの様子をしっかりと見させられることになる。
コンビニの前の出来事である。防犯カメラというものが、しっかりとその一部始終を収めていた。
防犯カメラの映像が、まるで映画のアングルばりに二人の姿を捉えていた。
それは現実感のないスクリーン越しの映像にしか見えなかった。まるで映画のワンシーンにしか見えない。台本もあり、演出家もいて、ぼくは演者。全てが終わればお役御免。翌日には相も変わらず億劫な日常生活が待っている。作品の評価は多少苛立たしい言葉もあったり、完璧な日常とは言えないかもしれないが、でもギャラはちゃんと振り込まれ、街を歩けば「映画に出てた人だ」と羨望の眼差しで見られる。
というわけにはいかない。
取調室で、すっかり憔悴しきって冷静になった状態でその映像を見た時、ぼくは愕然とした。その足の開き方といい、拳の構え方といい、とても落ち着いていて的を得た動きだった。その映像を見ながらぼくが思い出したのは、横浜のピザ屋にいた頃の記憶だった。バイトリーダーのキムラは地元で有名なボクシングジムに通っていて、よく彼に基本的な動作を教わった。ピザ屋の閉店後にバックヤードで男ばかりでたむろして、馬鹿話をしたり、残り物のピザを頬張った。そんな戯れの時間に、キムラを講師にした即席のボクシング教室が始まり、結構皆で熱くなった時期があった。新聞屋の寮生活でプロデビューした若者Kと出会い、彼にしびれたということもあり、根が生真面目なぼくはそこそこ良い線に行くまでボクシングの練習した。もっと昔にこの生真面目さを利用して、スポーツやその他の修練に向っていればどんな未来が待っていたのだろうか。ともあれ、どうやらこの時の練習で、力を込めるのに必要不可欠な技術が染みついていたようだった。ぼくは使ってはいけないところで、その身に着けた技術を使ってしまったのだった。
ぼくは、相手が抵抗をあきらめてその場を去るまで、殴り、蹴った。その行為はその男、というよりはその男の実在そのものではない何かに対しての攻撃だった。
つづく
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