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他者を引き合いに出す話法。

他者を引き合いに出す言い回しをされたとき、ぼくは黙り込んでしまう。

「〇〇さんもこう言っていた」
「〇〇さんなら出来る」
「みんなも同じこと言ってる」

といった言い回しなどだ。ちょっとした議論の最中にこういった発言をされるとぼくは固まってしまう。相手は「言い負かした」「ぐうの音も出ないだろ」と得意げに思っているのかもしれないが、残念ながらぼくはただ呆れているだけだ。呆れて声も出ない状態。

例えるなら将棋を指している場面を想像してほしい。対局中、相手の一手にぼくはじっと身動きが出来なくなってしまったがそれは勝機を見失っているからではなく、読み筋をとらえたが相手の背後から時計の針みたいな長いしっぽが見え隠れしていて「こいつ、人間じゃないな。悪魔だな」と感づいた時のような気持ち。将棋どころではなくなってしまう。

しゃべる気もなくなってしまう。

そもそもこんな言い回しに何の意味が、何の効果があるのかぼくには理解できない。ただただ奇怪な状況としかとらえていない。

これの進化形が
「あなただったらとっくに音をあげている」
「他の人ならこういうふうにできる」
というような言葉。
これらの前でもぼくは茫然としてしまう。もし次のセリフをぼくが何か言わないといけないとして、「日本語で話して良いのだろうか」と思うぐらい、この発言に相対する文言が思いつかない。

発言者は、伝えたい状況のスケール感や質を言い表したいと思っているのかもしれない。しかしこれは相手を「参加もしていない競技で勝手に点数つけてる」という面白くも何ともないおとぎ話に過ぎず、何も意味がない。
何が目的なのだろうか、と考えてみる。
考えてみた結果、こう考察する。

言った本人もよくわかっていない、という結論だ。

さんざんやられた挙句、いじめっ子に向って小石を投げるようなものだ。涙に腫らした目をしていて、ちゃんと相手が見えていない状況で。放たれた小石はどこまで届くのか、何に当たるのか、本人にわからない。とりあえず「投げた」という行為が何かをしたという満足感を満たしているだけだ。誰かを不幸にも幸せにもしない。毒にも薬にもならない。前にも後ろにも行かない。無。

ただ一つ言える確かなことは、こういう発言をすることはカッコ悪く、自らの価値を下げる、ということだ。

本来相手と向き合う時はその人しか見ておらず、その視野の中では「誰それより背が低い」とか「誰それより目が大きい」などの第三者の介在に意味など無い。その人がどういう個であるか、のみだ。他と比べて自分がどうであるか、本人が重々理解しているはずだし、そうではなくもし本当に井の中の蛙であるなら「他人はこうだ」と教えてあげればいい。まあしかしほとんどはさっき言った「いじめっ子への小石投げ捨て理論」にあてはまるものだろう。ただ口を動かして声を出しているだけだ。

心当たりのある人は、いますぐこういう言い回しはやめた方が良い。ことだま、とはよく言ったもので、こういう発言を慎むだけである程度は根差した物の考え方も変わってくるからだ。背筋を伸ばして歩くと、精神性がある程度高まる、元気になる、といった訓練と同じだ。難しいことじゃない。

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