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「この世に誕生した順に描かずにいられない」場合。

要領が良い、という表現がある。
当然「要領が悪い」ものがあるから存在する言い回しだが、これに基づいて分類するとぼくは子供の頃から後者の方だ。無駄のない筋道を通ってゴールに着かない、という意味で。
昔はずっとコンプレックスであった。
今でもぼくの分別ラベルは「要領が悪い」だが、人それぞれ合ったプロセスや事の性質に対応した手順というものがあることを今では知っている。目的によっても違う。

ワークショップなんかで切り絵教室をやっているとしばしば、Hachiの説明を無視して自分流に事にあたる人と出会う。たいていが大人の参加者で、もっと言うと経営者か何か、強く生きている自負のあるご婦人なんかがそのたぐいだ。

たとえば切り絵を体験してもらう時、用意しておいた絵を黒い紙に貼り付けてもらうのだが、ぼくは「四隅をカッターナイフでカットしたマスキングテープでとめてください」と告げる。そう手間のかかる事ではない。
しかし「要領良くやろう民」の彼らはHachi先生の言うことは無視してさっさと手でちぎってしまう。
確かにこのほうが早い。2、3秒ずつは縮まるだろうか。
でも切り絵完成まで視界に入る四隅のマスキングテープは、斜めやギザギザな跡を残したものよりきれいにカットされているものの方が良い。心に良い。普段の日常から離れてアート作品をつくる行為において、出来るかぎり美意識を尊重した方が良い。目に映るもの、その環境。それらにこだわらなくて何に意味があるのだろうか。

「要領良くやろう民」にはそんなことは関係ないようだ。早く作る、手際よく事をなす。要領良くやってみせる、要領良い自分を見せる。
ならもう棺桶に入ってじっとしていればいい、とぼくは思う。
目的の種類の違う、たとえばビジネスであったり、テストのような物事の前では確かに合理的・要領の良さは必要だろう。しかしそれらとアートは相対する事の成り立ちがそもそも違うのだ。ゴルフだって局面によってクラブを変えるように、ひとつずつ区切られたゴールまでのプロセスによって手段や態度は見極めるべきだ。

ぼくには花の絵を描く時にも手順の違いというものがある。一般的には大きくどーんと花を描き、それから周囲を装飾するようにして葉や茎を描いていくかと思う。もちろんぼくも主役から脇役へ、そんなふうにして描く事もあるが、時には茎から葉、葉から花を、という手順を絶対にゆずれない場合がある。
これは土から生えていった順を追って描いているわけだが、当然完成された絵を見る人にはまったく関係がないことだ。しかし自然物を描く時にどうにも「この世に誕生した順に描かずにいられない」場合があり、その感覚が作品のテーマと共鳴せざるを得ないことがある。大事な礎となる。すべての面においてということではなく、あくまで主題によって変わる。

依頼された家族の肖像画、たとえば4人家族を描く場合も、構図の描きやすさの観点を放り出し年長者から描くことがある。いくら子供が中心に据えられた構図であって、子供から描いた方が技術的にアプローチしやすい場合であってもだ。もう一度言うが絶対的なアプローチではなく、あくまでそういう想いが生かされるテーマである場合において。

また、ぼくの切り絵の切り口は曲線であることにこだわっている。どんな小さな部分であっても、たとえばギザギザな葉の頂きも小さな曲線で描く。どうでもいいことかもしれないが、小さな集積が最終的な作品の印象を決定づけると信じている。鋭角で切り抜いたほうが手早くできるし、完成させるという目的だけにフォーカスすると要領が良い方法と言える。しかし要領よく手早く、が目的ではない。時間すらもこちらの味方につけられないような芸術家は芸術家ではない。時間という概念のほうが作品の前では従属すべき存在であるとぼくはそう思う。

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