「ひとの絵が多いですね」と先日も聞かれました。
作品展にお越しになった女性は風景画の画家。彼女は
「なぜ人なんか描きたいのかわからない」
と言います。
対するぼくは
「なんで風景なんか描くのかわからい」
という相反する考え方同士。
決して対立しているのではなく、お互いにニヤリと笑って手を振り、それぞれの道へまっすぐ戻っていくようなさわやかな会話。
ぼくの興味の対象は人間で、作品の9割は人物画。意識したわけでなく、紙と鉛筆があるとそこに現れるのは人の姿。ぼくはそこに自分の感情や曲線の美しさを見出す。
風景画に登場する自然や建物に、彼女は「描かずにはいられない何か」を見出すのでしょう。動機の質はきっと同じだろうと思われます。
人物画は個性が強烈になりがちで「飾りやすい絵」とは言い難いです。よほどの推しがモデルになってない限り。つまり「売れる画家」とは言い難い。わかってはいます。
いつもぼくは絵画教室のときにイーゼルに向い、なんの思い入れもなくちょっとしたラクガキのような絵を描いていることがあります。この気楽なラクガキが後々大作になったりすることがよくあります。
先日もイーゼルに向っているとふと、「風景画を描いてみるか」と思い立ち、いつもと違うアプローチをしようと試みました。すると生徒の小学生が元気よく声をかけてきました。
「先生はおかお!」
ぼくが「え?」と振り向くと彼は
「ぼくはたてもの描く。先生はおかお!!」
いつも大きなエレベーター付きの建物ばかり描くよしひと。毎回彼はぼくにこう言います。
「先生はおかお!」
つまり人間を描きなさい、と。
時々、この彼の言葉はアートの神様の言葉ではないかと思うんです。
ちょっとした風景画を描いて見ようと思った時、それは「風景画を描きたい」という衝動からではなく「気に入られやすい絵だから」という気持ちが混じっていました。
かといって風景画を描く人が売れ線を狙っている、という意味ではなく「その人にとっての純粋な衝動かどうか」のお話。ぼくにとっては人物画は素直なアートの衝動以外の何物でもなく、そこに祈りや願いといった未来を封じ込めるのに適切なモチーフであると言えます。
ちなみにこのよしひとという生徒。
彼は定規も使わず堂々と真っすぐな線を引き、エレベーターと各階のドアを描いてホテルをよく描きあげます。彼の絵にまったく人が登場しません。ぼくと相反する表現を持つ子です。
その彼が言うからこそ、妙な説得力があり、ぼくはまた今日も「人はなぜ生きるのか」という謎が解けないまま心に言われたとおりに行くのです。
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