人間として生まれたからこれまでの人生において、ぼくはいろんな、人の目にふれるものを作ってきました。あ、これは仕事として似顔絵を描いたり切り絵作品を描いてきたりしたということとはまた別の話です。つまり・・・
好きな人へ書いたラブレター、救われたミュージシャンへのファンレター、クラスメイトを笑わせるためのおかしな絵、お楽しみ会の出し物、わざとミスして笑いになるならとかますアンファインプレー、オトンオカンとその友達がうちでお酒を飲んでいる時に大人にウケようと連発したギャグ、街角で泣いてる子供相手に放つさぶい冗談や変顔・・・
いっさい形や記録に残らない、下手すると誰の記憶にも引っかかってすらない、そういった表現の数々。それらはみんな、自分が作った作品のひとつひとつであると思っています。それがお金になるとかならないとか、そんなことすら考えも及ばない頃も今も、ぼくは変わりなく続けていると思ってます。
9年前に脱サラして、「アート作品を作る」ということを収入の一部にしてきました。本当にこれまで葛藤し続けてきました。
ただ自分の好きなものをわがままな価値観で作っていていいのだろうか。
アーティストと呼ばれる人たちはみんな立ち向かったことのあるテーマだと思います。
アーティストの皆さんにとってこのテーマは「通り過ぎた」のですか、それとも「未だ向き合って」いますか?
お金を頂いてアート作品を作るようになって、ぼくは幾度となく考えを行ったり来たりさせてきた課題です。
見た人に気に入ってもらうように描くべき?
「自分が楽しい」を優先するべき?
これは
白黒ハッキリつけるべき答えではない
というのがアーティストHachiとしての答えです。これはぼくが自分で作品を作っては誰かに買ってもらい、依頼を受けては制作し、異業種アーティストの方々との交流を経た9年間の間に出した結論です。
とても無責任な言い方じゃないか、とお𠮟りを受けそうではありますが、「作品を作る」(音楽や映画、小説、様々な意味においてのです)という行為そのものに、そもそもこの二つのエッセンスが否が応でも含まれているということです。
それはあたかも漫才が「ボケ」も「ツッコミ」もセットになっているようなもので、共存していないといけないもののような気がします。矛盾し合うほど一方が強くなると、それはそれでアートとなって成立するケースももちろんあります。
ぼくが子供の頃、テレビで見て何十年とずっと心に残っている言葉があります。
ぼくは小さい頃から映画を観るのが大好きで特に20代までは洋画ばかり観ていました。映画監督になりたくて脚本を書いていたこともあるくらいです。
そんな時、テレビでアメリカの映画監督になるための学校を取材したドキュメンタリーみたいなのをやっていたんですが、その番組の中でこんなくだりが紹介されていました。
講師の人がまず一番最初に生徒たちに教えることがあるそうです。それが、
映画を撮り終えたら、一番好きなシーンをまずカットしなさい
「え? 嘘やろ? なんでやねん!」
とぼくは子供心に思いました。
いっぱい映画も観た、勉強もした、そんな人が監督になって自分の映画を撮り終えて・・・まず最初にやることそれ?!
しばらくぼくはこの教育の意図がよくわかりませんでした。ただなんとなく忘れられない言葉として頭の片隅にはずっとありました。その答えの片鱗が見えたのはここ最近のことです。
数年前、ある作家さん(本を書く方)とお話する機会があってその方が当時執筆中の物語についてお話してくださったときのことです。
「俺、今書いてる物語のあるくだり、何度読み直しても自分で泣いてしまうねん」
と、おっしゃられて、ぼくよりもベテランの創作者の方だったので口には決して出しませんでしたが
「おまえが泣いてどうすんねん!」
と心で突っ込んでしまいました。
何となくこの時はただただ「気持ち良くない話だな」とだけ思ったんです。
で、実はこの時まではぼくはどちらかと言うと、「作品とは見る人に媚びるものではない」と強めに考えていた時期だったんです。もちろん媚びる必要はないかもしれませんが、見る人を遠ざけるようなものであってもならない。
ぼくがこの作家さんの発言に対して感じたイメージを言葉にしますね。ちょっと品のない表現で申し訳ないですが、
自分専用のラブドールを開発して、「このラブドール、最高やねん」と周囲に言うようなもの
別にいいと思います。自分専用にそういう代物を作り上げること自体はなにも悪くない。
けれどそれは誰かのためのものではないので、そっと自室にしまっておくべきものです。感想も口外でずに。
この一件の後、ちょっと想像してみたんです。ジェームズ・キャメロン監督が「おれ、自分の『アバター』観てどこそこのシーンでいっつも号泣するねん!」って公言したら、ぼくはたぶんもう二度と「アバター」観たくない(笑)
※でも百田尚樹さんが映画「永遠の0」観て5回泣いた、とかはキャラクター的に許せます、そうあってほしいくらい(笑)極めて個人の感想ですね、すいません。
つまり私物化してしまったり、そういうのが見えてしまうというか匂い立つと、受け手は冷めると思うんです。そこの生々しさはひょっとすると100年経ったときには、生々しさが薄れてひとつの価値あるストーリーとして作品の完成形になるのかもしれない。ものによってはそういうことはあると思います。
よく「作品は子供」という表現をする人がおられます。それも一理あると思いますし、捉え方は様々なので、ぼくの思う「子供」の言い回しとその人のそれはまた違うかもしれない。手塩にかけ、愛して、誠意を持って関わった時間・・・そういったものを一言で変換すると確かに「子供」と言えなくもないですね。けれどぼくにとって作品とはあくまでただただ作品であり、
ぼく自身というちっぽけな存在を軽々と越えていくもの
と表現しています。だってぼくは嫌です、他人さんの子供をある日を境に、何の脈絡もなく家に住まわせるなんて(笑)作品を買って手元に置くってそういうことじゃないですか。現実に置き換えると、それが愛する誰かの連れ子だったり、孤児の子供だったりしたら心から歓迎します。言葉遊びばかりでたいへん恐縮ですが、ちょっと極端にたとえますね。
「この絵はおれの一番気に入ってる絵。もうこんな傑作描けない。なぜなら一番愛した元カノを描いた絵だから思い入れがある。どうぞもらってくれ」
なんて言われた絵を家の壁に飾りたいとは思わないです。
その創作者がよっぽど有名な芸能人だったら話は別ですが(その場合、他のところに価値の基準があるので)、やはり創作者の個人的な思い入れというものが作品に匂い立ってはいけない。もちろん、いい塩梅というものが必要です。人の心を揺さぶることが前提なので。受け手の共感やそれに近い感情を引き出すようにしなくちゃいけない。
一時期ぼくもいろいろ考えすぎておかしくなったことがあります。わざと不快な作品を作って、それを見た人が「うっ、なんじゃこれ!」と嫌な顔をする。で、その鑑賞者の嫌悪の表情、そこまでふくめて俺のアートだ!みたいなところまで行くべきかな、とか考えたり。実際そこまで極端な行動には走ってませんが、「見る人を置いてけぼりにするほど超越したものがアート」とかなんとか息巻いてる時代もありました。(なっさけない)
置いてけぼりにしてどうなるねん。
でももしかすると、ぼくの知らないところでアートというものはそういうもんだ、なんて偉い人たちが話し合ってるのかもしれない。ぼくが間違っているのかもしれない。そもそも、答えなんかないものにラベルを貼り付けようとしているぼくは大馬鹿野郎なのかもしれません。
でもね、やっぱりね。思い出すんです。
学生の頃、授業中に先生のそっくりな似顔絵描いて紙をみんなにまわす。静まり返ったけだるい空気の教室。見た生徒が順番にクスクス笑い始める。「もう、笑かすなや!」なんて視線をぼくに向けてくる。で、ぼくが恋している女の子もそれを見て吹き出しそうになるのをこらえてる。ぼくの心にふわっと柔らかいものが広がり、退屈な授業中の空気の温度が少しあがる。そんなふうにぼくはいつまでも作品を作っていきたいわけです。
でもこれって結局、自分のため、ってことですよね(笑)
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