先日、路上で切り絵パフォーマンスを行っているとき、ぼくの足元に散らかった、切り抜かれた紙のかけらを見た通りがかりの男性が言いました。
「紙、もったいないなあ」
確かにそうです。
用意している大きな紙は少しずつ切り離されていきます。
描けば描くほど、紙がかけらとなって失われていきます。
切り絵は、油絵・水彩画が絵具を足して描いていくアートであるのに対し、画材を削いで描くアートです。
プロセスはそれぞれ違いますがどちらも完成すれば同じ絵画作品です。
切り絵というものは、アートの世界において「一風変わったジャンル」と皆様には思えるかもしれません。
しかし「何で描くか」という課題は、「何を描くか」という前ではあまり意味がないことであると思っております。
フレンチのシェフも、中華のコックも、和食の料理人も手法は違っても「お腹を満たす」という目的が同じように、われわれジャンルの違う芸術家の目指すところは同じです。
感動を与え、癒し、心に変化をもたらすことです。
人は言います。
クレヨンの絵は子供の絵、
油絵は芸術、
デジタルは邪道。
果たしてそうなのでしょうか。
いつの時代もアートは、われわれ芸術家の手もとをはなれたところで、移ろいやすい人々の感情や権威というものに翻弄されてきました。きっとこれからもそうでしょう。
こればかりは、芸術家が束になって躍起になっても変わらない人類のサガです。
世界的なオークションや権威を名乗る者の前では、耐久性の高い油絵の価値は高く、水彩画は価値が低い。
ましてや紙を切っただけの切り絵など、評価に値しないのかもしれません。
しかし、
人間が老いていくように、
木々が枯れていくように、
鳥の鳴き声がやむように、
「永遠じゃないもの」「衰えていくもの」を天からさずかったわれわれが何を選び、何を愛するかは人それぞれ考え方を異にするところです。
八田員成は自らの画法に、切り絵を選びました。
切っただけの、紙です。
かけらを失い、かけらを献上した末に残った紙です。(まるで「幸福の王子」みたいですね)
過ぎた時間と向かってくる時間の狭間で、作品を制作している時、「永遠に形を変えないもの」を手に入れようとするやましい心はあまりにもちっぽけで意味を持たないことに気づきます。
想いも、音も、地球の形も変わり続けています。
切っただけの紙。
永遠に残ることのない物質。
しかし、そこには何らかの痕跡があります。
切り絵アーティスト八田員成がこれまで描き続けてきた作品は、自身の、どこかの誰かの、些細で広大な物語です。
これからもずっとそうです。
失われていくことで残った紙に、ある種、魂のような刻印を宿した作品。
それが八田員成の切り絵なのです。
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