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「楽しむ」ことは100を理解することではない!

皆さんは映画館で映画を観るとき、どのあたりの席に座りますか??

ぼくはめちゃくちゃ前の方です。箱(劇場内)の大きさにもよりますが、だいたい前から3~5列目くらいまでです。

これには明確な理由があってそれは・・・めいっぱいこの時間を楽しみたいからです!! 特に昔なんかはスクリーンの横に煌々と光る「禁煙」のランプなんかがあって、後ろの方からだと余分なものが目に入ってしまうからです・・・。

「全部が見れないじゃないですか!」

と言われることがあります。確かに前の方の席は首を上げて疲れるし、視界にスクリーンのすべてが入りきらないです。それでもぼくは映画に没頭してしまいたい。

疑問に思うんです。

全部を見る必要ってあるんですか・・・!?

これは映画鑑賞に限ったことではなく、思うことです。あまりにも人は「すべてを把握」「すべてを認識」することに執着しはるなあって常々思うんです。

こんなことがありました。

ある小学校にアートの特別講師として招かれたときのこと。ぼくは授業の準備をしていました。低学年の子供たちがやってくる前の教室での準備。黒板に授業の内容を簡単に書いていました。

ぼくは「POINT」という文字を記していたんです。「ポイント」ではなく英語で「POINT」と。

それを見た学校の先生が、

「Hachi先生、それ、こどもたち読めないですよ」

と指摘してくださいました。ぼくは

「あ! そうですね。書き直します」

と言ってカタカナに書き直しました。

でもこれ、ぼくわざと英語で書いてたんです。子供たち、読めないだろうなという前提で。もちろん授業のなかでさらっと説明するつもりではありましたが(英語の授業じゃないから、あくまでさらっと!)。

ぼくが子供のころ、自分の心に響いたり、強く印象に残ったりしてきたものってほとんど「謎」や「疑問」「違和感」などでした。すとんと腑に落ちるものって、最初から分かり切ってることですもん。

誰も気に留めなかった出来事が、夜寝る前に思い出されたり、その疑問を解明しようと本を読んだり、誰かに尋ねたり。もちろん謎のままのこともあります。また、何年も経って大人になって想像力を働かせて「こういうことだったんだろうか」と、推測してみたり。

大人になった今でもそういう部分って大事だなと思ってます。

この特別授業でもそうですが、ぼくが誰かに指導や指南をする際、「理解をさせる」ということよりも「感じさせる」ことや「考えさせる」ことに重きを置いています。

そのうえでぼくは言葉や行動のなかに、「違和感」や「その時点での相手の理解力を超えた何か」を織り交ぜるようにしています。

永遠に理解できないかもしれません。理解したいとも思わないかもしれません。

ただ、理解しきったところで、あまり意味がないように思うんです。

話は最初に戻しますが、映画にしろ、小説にしろ、大事なのは「理解する」より「感じる」ということだと思うんです。

「面白かった」「良かった」「ためになった」

そういった、見てよかったと思える感想の前では「すべてを理解する」ことは重要ではないです。

「全部理解した、でも面白くもなんともなかった」

という作品ならまったく無意味です。

でも、人って全部を把握しようとしますよねえ。。。そういう気持ち、もちろんよくわかりますが、行き過ぎるとぼくはちょっとだけ、「怖い」と感じてしまう時がある。「理解したい」気持ちは大事ですが、度を越すと自分本位に近づいていく。

「よくわからないもの」にはよくわからないものなりの醍醐味があって、ぼくはそれも人生の味わいのひとつって思います。

たとえ常識的には間違った解釈や答えにたどり着いたとしても、感じさせてくれるものや信じるものに心を躍らせていたい。

自分を許せたり、癒せるようにしてくれたもの。それがぼくにとっては「アート」というものでした。

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